快感小説

妻は幽霊(終話)

終 話


 そして土曜日。

 野中のマンションで落ち着く前に祐紀子にはどうしても行っておきたい場所があった。川崎の外れにある野中家の墓。納骨から一度も来ていなかったし、野中への気持ちをどうしても姉に伝えておきたかった。
 天気がよく暖かい。そよ風の流れる穏やかな墓地には、週末とあってあちこちに墓参りに訪れる人たちがいる。駐車場には秋田ナンバーがあったりする。遠くなった故人を忘れない家族はもちろんいて、会いたくてやってくる。
 野中家の墓は比較的新しく、墓石に艶が残っていて秋の陽光に輝いていた。墓石の下にあの姉が眠っている。祐紀子はいまだに信じられない思いがする。

「姉さん、真央ちゃん連れて来たわよ。よく顔を見てあげて。…寂しいよ、生き返ってよ姉さん」

 間に真央を置いて野中と並び、それだけを言って手を合わせた。
 言いたかったことは声には出せない。ご主人と真央ちゃんを私にあずけて。姉さんの名で呼ばれることを許して。心の中で念じながら手を合わせていると、むしろ涙が遠のいて、異質な力が満ちてくるような気さえする。姉はきっと許してくれる。これで彼と愛し合える。
 そのとき透き通った佐紀子が墓石の横から覗いて微笑んでいたのだが、そんなことは三人にはわからない。

 今日はどこへ行くということはなかった。マンションに戻って真央と三人のんびりしたい。シーズンが終わったばかりで野中も疲れているだろう。
 クルマを降りて部屋へと入る。佐紀子との愛の巣は、何ひとつ処分することなく妻がいたときのままにされている。シーズン中で後回しになったこともあるのだろうが、野中は妻の匂いを捨てたくない。
 彼のことだ、最愛の真央までをあずけてしまい、独りになって、ここで泣いたのだろうと想像する。
「着替えちゃうから」
「うむ。さあ真央、おいで。向こうへ行ってよう」
「崇」
「うん?」

「姉さんの服みんなもらうわね、下着まで全部」

 野中はその意味を探るような面色だったが、すぐに微笑み、うなずいた。祐紀子は心を定めていた。ここにいるとき私は佐紀子。祐紀子の私は下着まで脱いで忘れてしまおうと。
 整理ダンスから姉の下着を手に取って、裸の姿から佐紀子をつくり上げていく。真紅のランジェリーを選んでいた。赤は姉がもっとも好んだ色。パッションレッド。姉が肌につけていたものを着ていくと、祐紀子が消えていくようだった。花柄の部屋着のミニワンピース。ハワイで買ったもので、これが好きでよく着ていたと思い出しながら、祐紀子は佐紀子に化身した。
 着替えてリビングルームを覗く。ロータイプの大きなソファで真央はパパにいじりまくられていた。

「…佐紀、綺麗だ」
 妻そのままの姿を一目見て、それだけで野中は泣きそうになっている。それで充分、佐紀子の心は震えていた。
 真央もそうだ。浅草の江戸屋にいて、すっかり江戸屋の家族になっていても、こっちに戻ると目の色が違う。幼いなりにじっとこらえているのだろう。この部屋にパパとママが揃っている。真央はいま、あたりまえだった日々に戻れていると佐紀子は思う。

 キッチンに立ってあたりまえのように食事をこしらえ、あたりまえのように真央を風呂に入れてやって添い寝する。安心しきって眠る娘にキスをして、ベッドを替えて夫のキスを受け入れる。
 避妊はしていた。それだけは琢也の子でないと受け入れるわけにはいかなかった。
 楽しい二日はあっという間に通りすぎ、クローゼットの前に立って、下着から祐紀子に戻って部屋を出る。水曜日からの二日のためにクルマはジープタイプのワゴンに乗り込む。山梨の森だそうだが高地ではなく、空さえよければ寒くないと野中は言った。現役だった頃、真央ができる前に夫婦で歩いた場所らしい。

 日曜日の七時すぎ、三人揃って江戸屋に戻る。
 祐紀子のいない土曜と日曜、浅草ももちろん好天で暖かく、江戸屋は大変なことになっていた。十一時の開店から昼の時間帯はずっと満席。うどんも蕎麦も品切れ。やっと休めたと思ったら、麺職人三人がかりで仕込みを済ませて四時半には午後の開店。それからオーダーストップのかかる七時までずっと満席が続くのだ。
 若い荒川でさえヘトヘト。疲れ果てて座り込んでいるところへ帰るのだから、祐紀子は胸が痛かった。

 それはそれとして、この土日、京子の様子が妙だと琢也は感じていた。元気がないわけではなかったが、何か考え込んでいるようで表情が冴えない。野中ばかりにうつつを抜かして店をかえりみない祐紀子が面白くないのかとも考えてみたのだったが、祐紀子が戻ったとたん、会いたかったとでも言うように寄り添って仲がいい。
 京子という、もう一人の妻。二人でまさかそんな話をしていようとは思ってもみない琢也だった。

 祐紀子は、京子に対してコソコソ隠れるような逢い方はしてほしくなかった。互いに見抜いていながら素知らぬ顔をしていると、いつかきっと爆発する。私に二人の夫がいるように、夫にだって二人の妻がいてもいい。隠さず愛を共有できたほうがピュアに愛せると思うのだった。
 そこで問題なのは琢也。密かに通じていても真面目な夫がそんなことを受けれるのか。祐紀子はそう考えていた。

 しかし琢也は違った。透き通った佐紀子に見抜かれていたことだし、京子ならそうなってもいいと妻の気持ちも聞かされていた。
 だけどやはり心が痛い。暗黙の了解であり言葉に出して言うことじゃないと思っていた。
 夫婦のどちらもが同じことを恐れていたということだ。

 節香は内心ハラハラしていた。祐紀子と京子の仲がよすぎる。気持ちを抑えようとポーズすることはあるものだし、真央やパパのためとは言っても、野球シーズンが終わってからは特に気持ちが野中に向きすぎている。琢也はほんとに怒ってないのか?
 これほど忙しいと真央がいてくれないほうが気が楽というものだったし、野中がいても琢也と祐紀子は仲がいい。けれどもやはり夫婦仲が気になった。蕎麦に必死で孤軍奮闘の琢也がちょっと可哀想。
 月曜火曜と江戸屋は落ち着く。真央は保育園を休ませてパパと二人で出かけていった。祐紀子は店に残って仕事をしたが、傍目にも琢也には怒る素振りが見られない。そこに近頃では京子までが溶け合って三人夫婦のようになっている。
 妙なものだと節香も蔵之介も顔を見合わせて見守っているしかなかった。

 さあ水曜日。景子だけがいない朝食を済ませ、野中、琢也、真央、祐紀子と京子の五人でクルマに乗り込む。
 低地でも紅葉のはじまった中央高速を走り、着いてみるとそこは別荘地を中心に整備された自然公園のようなもの。高度数百メートル程度の山の上に小さな神社があって、周囲をぐるりとハイキングコースが取り囲む。小川のせせらぎもあり、フィールドアスレチックなども整備された広大な公園。子供がいても危なくないしスニーカーで充分だった。
 低地よりは紅葉が進み、赤くなった秋の森は美しい。そんな中でパパとママに挟まれて真央は弾む。目を輝かせてパパと一緒に走り回り祐紀子が笑って見つめている。

 歩くとき、三対二に自然に分かれた。
 琢也のそばには京子がいて、恋人そのままに腕を絡めたりしているのだが、祐紀子は笑って平然としている。最初のうち目を気にした琢也だったが、このときになって妻は許したと確信できたし、チクリとした胸の痛みも薄らいだ。祐紀子も堂々と野中の妻、佐紀子となって笑っている。
 そんな姿を琢也は、これでいいんだと思って見つめていた。名前のように真央が真ん中にいて大人四人をつないでいる。野中に対して嫉妬心は微塵もなかった。

 夫には京子がいてくれる。祐紀子もまた恋人のように堂々と寄り添って歩く琢也に安堵した。野中との愛を責められれば江戸屋は壊れる。琢也の大きな器がすべてを許容してくれている。琢也は私の誇り。祐紀子としての愛がふくらむから佐紀子として野中を愛していけるのだから。
 離婚までして野中と添うつもりはなかったし、野中と別れて真央を奪われるなんて考えられない。このままずっと四人夫婦の関係が続いていくと考えた。
 でも、野中と京子のカップルは許せない。崇と真央は私のもの。

 野中と京子をカップルにしないために俺は京子は独占しなければならないと琢也は思う。
 そんなことになれば佐紀子はまた悪霊と化して京子を襲う。霊に憑かれれば命だって危うくなる。
 琢也は、腕を絡めて甘えるように歩く京子の腰に手を回し、そのとき振り向いた祐紀子に対して暗黙の声を発していた。
「京子を抱くよ」
 祐紀子は夫の面色をもちろん察し、微笑んでうなずいた。
「崇に抱かれるから」
 琢也もまた微笑んでうなずいて、京子の腰を抱き寄せた。

 そして、そのとき野中はそんな三人の沈黙の会話に気づきながら、真央の視線を大人のかけひきからそらすように手を引いて、枯れ草の混じりだした野原を駆ける。
 透き通った佐紀子が満面の笑みでまつわりつくように走っている。
 ただ一人それの見える琢也は、心の中で言うのだった。

「これでいいんだろ?」
『ありがと。琢也が好きよ、愛してる』

 野原を走り回るパパと真央に笑って駆け寄るジーンズ姿の祐紀子の輪郭に、同じようなジーンズ姿の透き通る佐紀子がすーっと重なって同化していく。

 貸し別荘は、一部が二階建てで八人泊まれる広さがある。寝室は二階が洋間でベッドが二つ。下が和室で布団が六組。野山を走り回って汗をかき、着いてすぐ風呂。浴室は広く、八人揃って入れるほどの大きな浴槽。
「真央がいるからごめんね、あたしたちが先でいい?」
「いいよ、行っておいで」
 ここでも二組に分かれていた。そのとき野中は、それでも確かめるように琢也を見たが、祐紀子は真央の手を引いてさっさと風呂へと向かっていく。
「野中さんもよ、行きましょう」
「あ、うむ」
 琢也はちょっと微笑んで野中に対してうなずいた。それを野中は受け取って、意を決したようにサッと目を切り、真央の背を押していく。

「琢ちゃん凄いよ。あなたが好き。抱いて」
 二人残った琢也と京子。暮れていくオープンテラスに立って、赤い陽光を背景にキスをした。
「もうコソコソ逢うのはやめましょうね」
「うむ。好きだよ京子」
「はい。いろいろ考えてるのよ」
「何を?」
「どっかにお部屋借りようかって。そうすればいつでも逢えるでしょ」
「ふふふ、どうやら祐紀ちゃんと話ができていたようだな」
「え? 何のこと? ふふふ」
「なるほどね、そのへん大人ってことだ」
 京子はちょっと笑って愛のキスを求めていった。

 その頃、浴室で。
「今夜、琢ちゃんと京子を一緒にしてあげましょう」
「それでいいのか?」
「いいの。もうコソコソしない。私だって佐紀子になりたい」
「なんだか話ができていたようだが、よけいなことは言うまい。みんな家族だ」
「そう、みんなが家族。私だけ二人分でズルい気がするけど、これも運命なのよ」
「運命か…その言葉、佐紀が好きでね。プロポーズされたときのことを覚えてるよ」
「プロポーズされた? したんじゃなく?」
「あいつのパワーさ。私と添うのがあなたの運命、逆らうと不幸になるわよって。よくもしゃあしゃあとって思ったけど、そこまで言ってくれる女は他にはいないと思ったさ。あの頃の俺にちやほやしなかった」
「姉さんらしいわ、激しいもん姉さんは」
「まあな。しかしその佐紀に、おまえはどんどん似てくるぞ」
 祐紀子は眉を上げてうなずいた。ちょうどいいお湯の中でママの乳房に抱かれていて、真央はトロンと瞼が重そうだった。
「あらら、おネム?」
「みたいだな。可愛いもんだ」
「ええ可愛い。私もう、この子のためならどんなことでもできるわよ」

 母親の強い言葉だと野中は思った。
「あなたもよ崇。私を本気にさせたんだから、そのつもりでいてちょうだい。姉を揺り起こしてでも祟るからね」
「ふっふっふ、それもまたアイツの口癖だったよ。裏切ったら呪ってやるって、お化けみたいに睨まれたことがある。怖かった」
「あははは、大丈夫よ、私はそこまで般若じゃないから」
 白い胸のふくらみに抱き締める真央越しに、野中はちょっとキスをして浴槽を立っていた。
「ほら真央、起きなさい、これからご飯なのよ」
「うん起きるぅ…ママぁ」
「はぁい?」
「真央のママよね?」
 キュンとした。真央なりに苦しんでいたようだ。
「もちろんよ。ママは私、安心なさい」
「うんっ!」
 ご飯と聞いて目が丸く開いていく。

 浴室を出て、待っていた二人とすれ違いざまに祐紀子は京子の尻をぽんと叩いた。
「できたら早くね。京子がしてくれないとお料理うまくできないし」
「はいはい」
 これには野中と琢也が一緒に笑った。
 京子の背を押しながら、琢也がなにげに言う。
「佐紀ちゃんらしいよ、あっはっは!」
 その一瞬、野中は横目を祐紀子へ流した。
 二人を見送って野中が言う。
「琢也君ほどの肝っ玉が佐々木にあればな」
「そうなの? 彼ってダメ?」
「ダメじゃないが、エラーでもしてみろ、ロッカーでウジウジと」
「佐々木さんらしい、可愛いじゃない」
「だから可愛い。必死だよ。奴はCSでもよくやった。春のキャンプ次第だが、来季アイツはレギュラーになるだろう」
「ほんと!」
「うむ。いまは郷里に帰ってるが少ししたら出てくるよ。若いの誘って江戸屋に行くって張り切ってた」
「いいわよ、四人ぐらいまでなら泊まれるから」
「そう言っとく。喜ぶぞ、あの野郎。一度佐紀に叩かれたことがあってね」
「そうなの?」
「俺はダメだってイジケてやがった。そしたら佐紀がパシンだよ。それからさ、スキューバをはじめたの。佐紀さん佐紀さんて姉さんのように慕ってた」
「…いい人ね」

 それから、持ち込んだ材料を広げてみて、祐紀子は米だけを研いでおいて京子を待った。料理の腕でははるかに京子。早いし包丁も冴えている。
 五人家族で囲む夕飯。それからゲームでちょっと遊び、真央はいよいよ眠くなる。
 下に三組布団を敷いて、上のベッドで二人が眠る。
「佐紀って言ったな、おまえのこと」
「そうね、言ったね。わかってるのよ何もかも。周りの人みんなの気持ちが」
「ああ、いい奴だし、俺など足下にもおよばない」

「…佐紀」
「タカちゃん」
 このとき佐紀は、もちろん佐紀子の赤いランジェリーを身につけていた。

「佐紀って呼んだね」
「そのほうが祐紀ちゃん楽だろ」
「琢ちゃんのそういうところがたまらないの。愛してるわ」
「うん。俺たちも仲よくしよう」
「…抱いて」
 いまごろ下で妻は野中に抱かれている。琢也は愛の不思議にちょっと笑い、唇を重ねていった。
 黒の下着の消えた白い京子は美しかった。腕の中で小鳥のように震えている。

 そしてそのとき、愛にしなる京子の裸身に、同じように愛にしなる透き通った佐紀子が多重して、すーっとズレて抜けだした。

「そんな…どうして?」
『琢ちゃん勘違いしてるわよ』
「どういうこと?」
『あたし確かに祐紀に憑依したけれどさ、あの子の心は少しだっていじってないわよ。祐紀が野中を求めたの。祐紀があたしになりたがる。だからあたしは妹から離れるの。京子の体はあたしがもらう。姿は京子でしょうけれど、京子の心は私は封じる。たったいまから京子は佐紀子。琢ちゃんを愛してしまった。京子なんかに渡してたまるもんですか』
「…激しい人だ」
『愛のためよ。私は死なない。京子を追い出したってあなたの妻だわ』

 ここ数日、様子のおかしかった京子。佐紀子に憑依されて混乱していたのかもしれないと琢也は思った。
 多重する透き通った裸身がすーっと重なり、そのとき京子が目を開けた。

「そういうことなのよ、うふふ。これって双子の姉妹でスワッピング?」

 琢也は声を失った。京子の声ではなかったし、遺影の中の佐紀子の眸の色そのままだった。

妻は幽霊(四五話)

四五話


 敵地広島に乗り込んだ横浜シーシャインズ。ペナントレースの成績から結果的にセリーグ関東三チームを代表するCS進出ということで期待されたシーシャインズだったが、双方一勝で迎えた三戦目、プレッシャーからか先発投手が崩れてしまい、中継ぎも打ち込まれて勝負はついた。
 そんな中で佐々木は、三戦ともに六番サードスタメンで起用され、各試合複数安打の大活躍。皮肉なもので佐々木の前にランナーがいなかった。
 シーシャインズの今シーズンが終わったわけだが、一部のベテラン選手と帰国する外人選手を除いて、シーズンが終わったから休みということではない。とりわけコーチングスタッフは来季に向けたミーティングも多く、好調とは言えなかったシーズンだけに立場は苦しい。

 そんな十月半ばの土曜と日曜、祐紀子は真央を連れて野中を元気づけに出かけて行った。パパと三人で秋の伊豆をドライブし、リゾートホテルに泊まる。
 一方の琢也も、あれから一度、水曜日に京子と外で逢っていた。水曜日は店は休みだったが保育園があって祐紀子は家を空けられず、月に二度は保育園の後、近くのスイミングクラブで水泳を教えていた。真央はスポーツに向いている。四歳にも満たない子供が大人顔負けのクロールで二十五メートルを泳ぎきる。

 それともうひとつ、江戸屋にも変化があった。土日だけ若い麺職人が武者修行に来るようになっている。観光シーズン本番の土日は忙しすぎて、じきに六十七歳になる蔵之介一人では身が持たない。琢也は蕎麦を打てなかったし厨房は戦場と化していた。
 そこで蔵之介は、かつて親方として仕切っていた神田の名店から週末の二日間だけ若い衆を回してもらうことにする。若衆としても、浅草で知られる江戸屋で、かつての親方の下で学べるとあって張り切ってやってくる。

 隅田川のそばにある江戸屋なのに若者の名は荒川淳。歳は十八と琢也より一回りも若かったが、高校を一年で中退して麺職人として二年近くのキャリアがあった。背丈も百七十五センチと長身で若くてキビキビ。髪は職人らしい角刈りで整った顔立ちの青年だ。実家が埼玉で蕎麦屋をやっていて、その店を継ぐために修行に出ているらしい。
 琢也と同じような立場だったが、琢也にすればはるか年下の先輩ということなり、ちょっと口惜しい。江戸屋の蕎麦は伝統的に白くて細い麺。つまり、うどんにくらべてはるかに薄くノバさなければならなかったし、切り幅も細く揃えないと茹で上がりにムラが出る。小麦粉でつなぐ二八蕎麦ならまだしも、蕎麦粉だけの十割でそれをやろうとすると技量がないととてもできない。

 蔵之介がはじめた新しい江戸屋の蕎麦は、白く細いという江戸屋の伝統を守るため一番粉を主体に打つのだったが、蔵之介は、それでは蕎麦の風味に欠けるということで、一番粉七に対して二番粉を三混ぜる蕎麦をつくった。一番粉だけでつくるものよりわずかに黒みがかっていて、しかし打ちやすい麺だったが、それでもグルテンを含まない一番粉が主体なだけに水回しとコネがすべて。琢也が打つと厚みも幅も一定せず、茹でるうちにブツブツ麺が切れてしまう。

 若い荒川が来たとき、親方のそばで打つところを見せられて琢也は愕然とした。
 コネ鉢に一番粉七、二番粉三を混ぜた蕎麦粉を一、五キロ。コネ鉢の肩の一か所に水を細く落としながら、反対の手で手早く混ぜてダマにする。それからコネ鉢をさらえるように粉を取り込みながら揉み込んで、あっという間に蕎麦玉をこしらえる。菊揉みにまんべんなく揉み込んで丸くまとめ、それからがノシと切り。
 そのときも麺棒を巧みに使いこなし、四角く、均等に薄い蕎麦生地に仕上げていくのだが、生地にまるでヒビが入らない。琢也だとヒビだらけになってしまって、だから茹でると麺が切れる。
 布をたたむようにきっちりたたみ、駒板を当てて切っていく。機械打ちの麺のように厚さも幅も揃っていた。
 蕎麦打ちは焦ってもダメ。場数を踏んでいくしかない。いまの自分など神田の店に行けば皿洗いが精一杯。腕の違いを見せつけられた。

 平日は午後になって休んだときに余裕がある。蔵之介が横に立って息子を教える。まさに江戸屋の息子。それだけに親は容赦はしない。
 節香も祐紀子も、京子も景子も、厨房脇のテーブルに座って横目で見ていた。ガラス越しでも声はしたし、店の休憩どきでは麺打ち台への引き戸が開いているから、さらに声が響いてくる。
「手が荒い! 揉むのとつぶすのは違う! 空気を喰わせるからおめえの蕎麦はダメなんでぃ!」
「はい!」
「こう、水をじくっとなじませるようにだな、蕎麦玉をつつむようにして揉み込んでやるんだよ」
「はい!」
「ええい違う違う! それじゃおめえ、祐紀坊の乳揉んでるだけじゃねえか!」

「けーっ、そればっか。助兵衛ジジイ…ああもうっ、腹が立つ!」
 節香が苦笑し、女三人が顔を見合わせて笑い合う。

 揉み込みももちろんだが、ノシからこそ腕。琢也はまず遅かった。もたもたしていると生地が乾きだしてヒビになる。
「まだ遅い!」
「はいっ!」
 遅いと言われて速くすると今度は荒いと叱られる。
「まだちっと厚い、もっと薄くノシてやれ」
「はい!」
「麺棒を大胆に使ってやさしくだぞ」
「はい!」
「おめえのノシはよ、キスしていいって女に訊いてるようなもんなんだ。気を入れてイッパツで決めるんだが、そんときやさしくブチューてなもんよ。わかったか!」

 節香は怒鳴った。
「わかるかい、そんなもん!」

 女三人が声を上げて笑う。
「おろ? 聞こえたかい? あっはっは!」
「聞こえるわさ、大きな声でー! 恥ずかしいねー、もうっ!」
 節香は呆れて首を振り、テーブルを囲む女三人の顔を見た。
「わかるわけないだろ、ったく…。ふふふ、ダメだー、どうしてもそっちに行っちまう、あははは。先々代もそうだったから江戸屋の伝統なんかねー、あっはっは!」

 祐紀子は可笑しかったが、そう言えば琢也は、最初のときガツンと奪ってくれたと考えていた。
 ひ弱に見えても男らしいところがある。真剣な眸で見つめてくれて迫ってくれた。嬉しかったし逃げられないと覚悟が決まる。思い出すと胸が熱くなってくる。琢也が好き。気持ちは少しも変わらない。
 そのことと野中への想いは別。最初の頃は真央を挟んだ想いだったが、生き写しの姉を愛し抜いて、いまだに遺影の前で涙する彼に心が動く。グランドでの戦いは熾烈だったし、佐々木のような若手の成長を願う姿にもやさしさがあふれている。野中への想いもまた、どうしようもないものだった。

 不倫になる。琢ちゃんのことだから逃げ腰だろうと思っていた。
 けれどあのとき、見え透いた取り繕いを言わず押し倒してくれたと京子は思う。琢也を奪おうなんて思っていない。ただ、そうなったときは有無をも言わさず私を女にしてくれる人がいいとは考えていた。
 祐紀子はもう気づいているだろう。でもそれが何よ? 私たちだって野中さんとのことに見ないフリをしてるのよ。お互い様だわ。
 このとき京子は、そうはっきり意識して祐紀子の横顔をうかがっていた。

 互いにそう思っているだろうと察しながら、にもかかわらず、ますます仲がよくなっていく妻と京子を見ていて、琢也は不思議な思いがした。表向きだけではないと思えるからだ。
 京子は子供が好きで、とにかく真央を可愛がる。内心いまだに好きな野中の子だから? とも考えてみるのだが、京子もまた我が子のように可愛がる。
 江戸屋という家族だからか?
 それにしても近頃では仕事の後、夫と子のいる景子を先に帰してしまって、近くの銭湯へ祐紀子と二人で連れ立って行ったりしている。女
同士で愛し合ってもおかしくないほど仲がいい。
 女二人の不思議な連帯。もしかしたら佐紀子が取り持っているのではとも考えるのだが、あえて口に出すことではないと琢也は思う。

 そうこうするうちに十一月。野球もいよいよオフらしく野中には時間ができる。
 その週の土曜と日曜、祐紀子は真央を連れて野中と会い、そのまま向こうのマンションに泊まる。そして翌月曜日に揃って江戸屋へやってきて二晩をすごし、水曜日の店の休みに、京子までを連れて山梨にハイキングに行こうということになっている。
 このところずっと店は忙しく、今月末に出る女性誌でいよいよ江戸屋が紹介される。そうなるとますます混む。それで節香は翌日の木曜を臨時休業とするからゆっくりしてくればいいと言うのだった。
 開店来はじめての連休。滅多にないイベントに真央はもちろん京子も嬉しくてたまらない。

 その夜も銭湯に誘い出し、祐紀子が言う。
「だけど京子、坊やはそれでいいの? 可哀想じゃない?」
「可哀想も何も、そんなことで学校を休ませるわけにはいかないし、たまには家を離れたいし。いいのよ別に」
「いろいろあるんだ?」
「ううん、というわけでもないけど母がさ…」
「再婚のこと?」
「そうなのよ。母もそうだけど親戚でうるさいのがいてね。まったくよけいなお世話だわ。ついこのあいだも縁談を持ち込んできて、断ったんだけど、それで母も言うのよ。まだ若いんだからもう一度行けばって」
「まあね、お母さんとすればそうなんだろうけど、気持ちが向かなきゃしょうがないわよ」
「嫌よ結婚なんて。二度と嫌。いまが楽だし、江戸屋さんにいて幸せなんだから。真央ちゃん、野中さん、琢ちゃん、女将さんと蔵さんも羨ましい夫婦だし、江戸屋の家族になりたいぐらい」

 大きな湯船に身を寄せ合って、祐紀子はうなずく。
「ありがと。私はそのつもりでいるわよ、京子がいてくれないと真央だって寂しがるし、だいたいお店が回らないもん」
「お店のことはパートだからいいんだけど、ユッキーにすればそうよね。パパが来たときの真央ちゃんの喜びよう、パパにしたってそれはそうだし、遺影の前では泣いているし、放っとけないもんね」
 京子は話の流れを装って思い切って言ってみた。
 そのとき祐紀子は、白湯を指先でちょっと掻くようにしながら、うつむいて言う。
「…あたしは」
「うん? なあに?」
「こんな言い方どうかと思うけど、彼といるときは姉さんなのよ。彼にも言ってるんだ、佐紀って呼んでって」
「ふーん、そうなんだ…わかる気はするけど」
 同じようなことは琢也とのベッドで聞いていた。彼に対して佐紀になれる祐紀子だから尊敬すると琢也は言った。
「すごい夫婦ね。嫌味じゃなくてよ、尊敬しちゃう。琢ちゃんて、ほんと強い」
「そう思う。世間的には不倫だもん」

 京子はハッとしたように祐紀子の横顔をうかがった。野中に抱かれていると白状したようなものだったし、それが言えるということは、もしも琢也に知られても彼なら許すと信じきれているからで…。

 洗い場を出て隣り合わせで下着を着込みながら、祐紀子はチラリと京子の裸身へ眸をやった。
 ふ…と一瞬微笑んで、連れ立って銭湯を出る。夜風はさすがに冷えてきていた。
 銭湯から川筋に出ることができた。祐紀子は遠回りをしようとした。この季節の川筋には人は少ないからだった。
「貸し別荘なのよ、泊まるところ」
「うん?」
「寝室が二つあるんだって。二階建ての上と下に」
「あ、そう。それが?」
「そうなると真央とパパと私は一緒になるでしょう」
「あ…そうね、じゃないとヘンだもんね」
「野中さんは男女で分かれようって言ってるわよ。だけど真央のことを思うと一緒にいてやりたいなって」
「うん、滅多にないことだもんね」
「そうなのよ。だからね…うまく言えないけど、ほんとの意味で家族になって」

 そうなると琢也と京子が一緒になる。これまで何度か水曜日に逢っていたこと祐紀子はやはり見抜いていたと、このとき京子は感じていた。
 そしてそのとき、京子の頬に不意にキスがやってきた。ハッとして顔を見ると祐紀子は穏やかに笑っている。

 女二人で琢也を共有しようと言われたようなものだった。

妻は幽霊(四四話)

四四話


 プロ野球もシーズン最終。各チームに対し、少なくて残り二戦、雨で流れたゲームを残す多い相手であっても残り五戦。その残り五戦のうちの三戦を神宮で戦うことになる。
 広島へも大阪へも今シーズン最後の遠征。首位の大阪パンサーズ、二位の広島シャークスは、ほぼ確定。Aクラス残留の対象チームは東京ドームに本拠を置く東京シャイアンズ。東京シャイアンズは現在三位で二ゲーム差。残りゲーム数からも、とにかく勝たなければならなかった。
 しかし翌日からの三連戦で横浜シーシャインズは二勝一敗。一方の対象チームは三連勝とゲーム差がひろがってしまう。遠征で一勝でも多く勝って、戻ってからの直接対決二連戦を二勝しなければならなくなった。神宮三連戦を終えた時点で数字上の希望はあったのだが絶
望と言ってもよかっただろう。

 ところが、それからの広島との三連戦、大阪との三連戦の遠征で横浜は四勝二敗。対する東京シャイアンズは二勝四敗で、ゲームがなくなってしまう。戻ってからの数戦、とりわけ直接対決二連戦が勝負となる。そうなると野中はチームに張り付いていなければならず動けない。
 九月の末。ドーム球場が本拠の東京シャイアンズはゲームの消化が早く、直接対決を終えた時点で一ゲーム差の三位。横浜シーシャインズが残り二戦を連勝できれば勝率で上に立てる。

 十月の頭、横浜スタジアムでの今季最後の二連戦。初日は胃の痛くなる投手戦で2-1で辛くも勝利。しかし最後の最後の試合が乱打戦となって、七回を終わって7-8で1点ビハインド。
 江戸屋では節香と蔵之介の部屋にある大きなテレビに、京子景子までが着替えもせず作務衣のままで張り付いて試合を見ていた。
 八回表の相手の攻撃を抑え、その裏、ツーアウト一二塁。そこで打順は今日まるで打てていない二番打者に回り、代打、佐々木。シングルヒットで同点、逆転には長打が欲しい場面であった。
 相手ピッチャーはベテランセットアッパー。一塁コーチャーズボックスに野中が立って、打席の佐々木に拳を握って鼓舞している。

 祐紀子も京子も、野球をそれほど知らない景子さえも息を詰めて見守った。
 初球ファウル。二球目見逃し。ノーボール・ツーストライク。緊張のあまり佐々木は一度打席を外してタイム。ふたたびかまえ、二球続けてボール。ツーツーの並行カウントからの五球目、ど真ん中のストレートを打ち損じてファウル。天を見上げて口惜しそうにした佐々木。
「ここはストライクはいりませんね、外に落してやれば振りますよ」
 うるさい。わかったような解説に腹が立つ。

 そして勝負の六球目。キャッチャーの構えとは逆球となるインサイド膝元から落ちるフォークボール。佐々木のバットは動かなかった。見送ったのか手が出なかったのか。ストライクと言われてもしょうがないコースだったが判定ボールでフルカウント。次のバッターは今日二安打の三番クリーンナップ。ここで満塁にするわけにはいかなかった。ストライクを投げ込むしかない。
 祐紀子は手を合わせて祈るようにテレビを見つめた。アナウンサーも興奮している。
「さあ勝負だ! フルカウントからの七球目、ピッチャー投げた!」
 パキィーっといい音。スタジアムがどよめいた。
「やったーっ! 打ったーっ!」
 祐紀子も京子も景子も、小さな真央までが絶叫する。
「打ったーっ! 代打佐々木、センター前ヒット! 二塁ランナー生還で同点! 同点! 横浜追いつきましたーっ!」

 そしてそのとき三塁を狙った一塁ランナーへのサード送球がワンバウンド、三塁手のグラブを弾いて外野側へてんてんと転がった。
「ああエラー! まさかのエラー! ランナー突っ込む!」
 カバーに走った相手ライトからの矢のような返球。またしてもホームクロスプレイ。
「滑り込んだが、キャッチャー、ブロック! 判定どうかーっ! 判定はーっ! セーフです、セーフ! 逆転! シーシャインズ土壇場で逆転ーっ! 打ったバッターの佐々木はセカンドへ!」

 セカンドベース上で佐々木は正座をするように座り込んでしまっていた。一瞬後に両手を突き上げてガッツポーズ。佐々木佐々木の大合唱が巻き起こる。
 そしてさらに、その佐々木をセカンドに置いて今日絶好調の三番バッターがライトの頭を超えるスリーベースヒット。次の四番バッターが続けてヒットで、この回一気に四得点。九回表に相手にソロホームランを浴びるも二点差でゲームセット。両軍ともに、まさに死闘。横浜シーシャインズはクライマックスシリーズ進出を決めた。

 ベンチ前に佐々木は引きずり出されて胴上げ。ドリンクを浴びせられてもみくちゃにされている。
「野中コーチも泣いてますねー、抱き合って喜んでます」
「そうですね、あの一打でAクラス確定ですからたまらないでしょう。佐々木は野中君みずからが育てた男ですからね、嬉しいと思いますよ」
 祐紀子もそうだし、京子までが目頭を押さえていた。
 ヒーローインタビューはもちろん佐々木。泣き崩れて声にならないインタビューを最後に、横浜シーシャインズの全日程が終了した。
 祐紀子がふと見ると琢也が涙を流している。二軍で苦しんだ姿が自分と重なるのかもしれなかった。

 試合が終わったのが九時半すぎ。それから一時間半以上がすぎた十一時頃になって、祐紀子ではなく琢也の携帯がバイブした。
 そのときは京子も景子も帰っていて真央はスヤスヤ眠っていた。
「ああ、これは野中さん、おめでとうございます、やりましたねー、見てましたよみんなで」
 祐紀子がクスリと笑いながら耳を寄せて聞いている。
「まったくね、Aクラスなんて信じられない。それで明日なんですが」
「あ、はい? こっち来ます?」
「そのつもりなんですがいいですか? さすがにみんなバテバテで明日は休もうってことになりましてね」
「ぜんぜんかまいませんよ、CSの前にぜひどうぞ」
「佐々木の奴も一緒にいいですか? 若旦那の名物うどんが喰ってみたいってうるさくてしょうがない。はっはっは!」

「ちょっと代わって」 と祐紀子が嬉しそうに言った。

「祐紀よ。凄かったなー、感動しちゃった。佐々木さん凄いよー」
「ほんとだよな、あの場面でよくぞ打った。あの野郎が打ったとき鳥肌もんでした。チームみんながそうでしたよ」
「それでしたら野中さん、ウチには佐々木さんのにわかファンがいるからサインボールでもお願いできない? 京子も景子さんも涙ぐんで見てましたから」
「はいはい、そんなもんでいいならいくらでも用意しますよ。ボールとユニフォームにサインさせて持たせますから。明日は土曜だけど、お店忙しいでしょ?」
「お天気次第ですけどね、七時半には空きますから大丈夫」
「わかりました、じゃあその頃に。あれから佐々木の野郎、ボロクソですよ。殴られ蹴られビールを口に突っ込まれてエライことになってます、あっはっは!」
 滅多に飲まない野中も今夜ばかりはアルコールが入っている。
 弾むように明るい。祐紀子は即座に京子に電話を入れて明日のことをつないでおく。京子も今夜は寝られないと笑っていた。

 翌、土曜日は上天気。観光シーズン本番で浅草界隈にどっと人が出た。開店からフル回転で、うどんも蕎麦も品切れ。やむなく二時すぎに一度閉めて仕込みにかかる。ふたたび店を開ける四時前には、四時開店の張り紙を見た客が店の前に並びだし、それから夜までフル回転。新しい江戸屋はうどんの名店としても知られるようになっていた。
 七時になってオーダーストップ。そのときも店は満員で、最後の客が出たときには七時四十分。その最後の客とすれ違いに野中と佐々木が連れ立ってやってきた。二人ともカジュアルスーツ。現役選手で若い佐々木は練習で陽焼けして真っ黒。野中ほどではないが佐々木だって百八十センチを超える長身で、二人ともカッコいい。
 祐紀子、京子、景子、そしてもちろん真央が出迎え、野中は真央を抱き上げて、女三人は揃って佐々木を取り囲む。サインボールとレプリカユニフォームにサインをしてもらい、嬉しくてたまらない。

 琢也の出番だ。佐々木のためのうどん玉が切らずに残してあった。麺打ち台に立つ若旦那。野中と佐々木がガラス越しに覗き込み、琢也は手慣れた手つきで麺棒で生地をノバシ、きっちりたたんで麺切り包丁で切っていく。
 佐々木が目を輝かせる。
「ほう、すごいもんです、プロだなぁ」
「だって毎日ですもん。うどんはこれだけできても蕎麦はまだぜんぜんなのよ。できなくて苦しんでるんです」
 祐紀子に言われて佐々木はうなずく。ファームで苦しんだ自分の姿と重なる。しかし琢也はうどんでは見事。太さの揃った綺麗な麺が見る間にできあがっていく。
 今夜は佐々木が来るということで赤飯を用意してあった。皆も夕食はこれからだったから、奥の座敷に席をこしらえる。
 節香お手製の小料理で軽く乾杯。それから琢也と節香が厨房に立ってうどんをつくる。外はもう肌寒い。温かい天ぷらうどん。麺は琢也があげて天ぷらは節香が揚げた。京子と景子で席へと運び、誰より佐々木が目を丸くして箸をつける。

 一口を運ぶ。皆がしーんと見つめている。
「これは…ううむ、美味い! これは美味いよ!」
 佐々木はちょっと大げさだった。
「そうすか?」
 そのとき蔵之介も一口つけて横から言った。
「ふむ、なるほど、店で出すもんとはちぃと違うか。二人ともスポーツマンで汗をかく。わずかに塩が多いだろ?」
 琢也はうなずいた。
「ほんのちょっとですけどね。そのほうがいいと思って」
 佐々木は驚いたようだった。たかがうどんでも、職人の気づかいで味は変わるということだ。
 佐々木が言った。
「僕は秋田ですが」
 節香が言った。
「ああ、稲庭の本場ですもんねー」
「そうです。稲庭とは違いますが、でもこれだけのうどんは滅多にないすよ。いやぁ美味い、驚きました」
 琢也が言った。
「東京オリンピックのときのことを書いた本を立ち読みしましてね」

 蔵之介が眉を上げて視線を向けた。皆も琢也を見つめている。
「選手村で料理を担当したのは超一流ホテルのシェフたちだった。料理は間違いなく一流。なのにどうしたことか食べ残す選手が多かったそうなんですね。選手は汗をかくから味が薄いと美味しく感じない。そこに気づいた料理長がほんのわずか塩を増やしたところ、とたんに選手たちは大喜びで残す人がいなくなったということなんです」
 蔵之介はうなずいて、立派になったと言うように節香と顔を見合わせた。節香も嬉しい。いつの間にか若旦那はプロになってくれている。

 佐々木は黙って琢也の顔を見つめていた。職人の凄さを見せつけられる思いだったに違いない。
「若旦那って、この道に入ってまだ四ヶ月ほどだと聞きましたが?」
「そうですよ。いまはまだうどんだけです。やっと少しできるようになったばかり。蕎麦なんてとてもとても、めちゃ難しい」
「最初の頃はスイトンだったもんねー。あははは」
 節香が笑って、琢也同様に、まるで息子のように若い佐々木に言った。
「いつぞや二軍の試合を見せていただいたときにね」
「あ、はい? 横須賀でしたね?」
「そうそう、そのとき。プロの厳しさを見たって琢ちゃんが言うのよ。俺には蕎麦だって。負けないって。だから夕べの佐々木さんの活躍がどれほど嬉しかったか。ねえ琢ちゃん、そうよね?」
 琢也は唇を固く結んでうなずく。
「あのとき泥だらけだった人があれだけの観衆を沸かせている。主役でしたもん。震えましたしプロの世界は何でも一緒だなって思いましたよ」

 それには佐々木よりも野中がうなずいていた。真央はパパの膝にいてご機嫌だったが、騒がずに話に聞き入っている。そんな真央の頭を微笑んで撫でながら野中が言う。
「まあ、これはじつはマル秘なんだが。プレッシャーになるといかんからな。…で、佐々木よ」
 野中はにやりと笑って横目をやった。
「あ、はい?」
「CSだがな、初戦はスタメンでいくって監督が言ってたぞ。明日あたり呼ばれるだろ」
「ほんとすか?」
「でなければファンが納得しない。CS行きを決めた選手を何で使わないってことになる。いつも言ってるがスタメンとはそういうことでもあるんだよ。琢也君のうどんを目当てにお客さんが来るようなものなんだ」

 佐々木は唇を噛んでうなずいていた。
 そのときの佐々木の姿を忘れないと皆は思う。勝負に臨む武人の姿のようだった。佐々木とは初対面の景子はもちろん、祐紀子も京子も声さえ出せず、けれども胸は熱かった。頑張ってなんて見え透いたことを言ってもはじまらない。
 琢也はドキリとした。佐々木の手が武者震い。この人にとって運命を左右する勝負がはじまる。自分には蕎麦。早く覚えたい。ぜんぜんダメ。まだまだ二軍選手だと自分で思う。
 佐々木が言った。
「食べに来ますよ、仲間を誘ってこれから来ます。確かにそうです、このうどんを目当てにやってきて若旦那がいなければお客さんは納得しない」
 隣りに座って聞いていた蔵之介が琢也の背中をバンと叩いた。
「だとよ。最高の褒め言葉だぜ、身に沁みて覚えとけ」
 そのとき節香が涙を溜めていたことを、祐紀子は生涯忘れないと思って見つめていた。

 食事が済んで、今夜は野中と佐々木が客間に入る。その前に二人して仏間を覗き、そのとき今度は佐々木が涙を浮かべていた。
「佐紀さん、来ましたよ、佐々木です。もう一度一緒に潜りたかった。寂しいです。俺、江戸屋のみんなのためにも頑張りますから見ててください」
 野中が遺影に微笑んで、佐々木の肩に手を置いた。

妻は幽霊(四三話)

四三話


 その週末はあいにくの雨網様。秋雨前線が居座って金曜の夜からの雨が日曜の午後まで降り続き、土日の客入りは期待したほどではなかった。天気のいい平日の方がいいくらいのもの。良く言えば落ち着いた週末だったと言えただろう。

 夜には野中が来るという月曜になって、江戸屋にちょっとしたニュースが生まれた。
 『若旦那の名物うどん』というのぼりがお客を集め、そのクチコミで伝わったのか、奥様向けの女性月刊誌の取材の申し込み。浅草はよく取り上げられる街だったが、今回はグルメに絞って周辺の店をイラストマップとして本誌に付録の浅草グルメガイドという小冊子に編集しようというもの。雑誌に載れば一気にお客が増えるものだし、クチコミでさらに人を呼ぶ。
 朝電話があって、昼の営業を終える二時にはすでに記者とカメラマンがセットでやってきた。東京はせっかちだ。店の前に女将を入れた店の者六人が居並ぶ写真と店内の撮影。琢也がうどんを打つ姿を写真に収め、レビューを書くための取材があった。

 祐紀子は琢也のうどんが知られていくのが嬉しい。蕎麦はこれからとしても、うどんでは蔵之介が認めるほどのいっぱしの職人になれている。有名になればやり甲斐も生まれるし、江戸屋で麺職人になったことを誇りに思ってくれればいい。この週末は雨だったし真央の病み上がりでもあり店でおとなしくしていたが、これからは真央を挟んで野中との接点も増えていくだろうと考えていたからでもある。
 そんな中で節香は、京子に対する祐紀子の接し方がいい意味で微妙に変わったと感じていた。夜中に薬をもらって真央のピンチを救ってくれたからでもあったのだろうが、琢也を挟んで牽制し合うようなところがなくなった。祐紀子と二人、景子も入れた三人で仲がいい。

 江戸屋は以前よりもまとまった。けれどそれがいいことなのか。
 妻たる祐紀子が、夫への京子の接近を許したということ。それはつまり祐紀子と野中の関係が深くなっていくことを意味している?
 考えようによっては夫への罪滅ぼしと受け取れなくもないからだ。
 これからの蕎麦職人として琢也は江戸屋を出ていけない。夫を奪われない範囲で済むなら許すということか? 悪く考えれば、祐紀子と野中、そして琢也と京子のどちらもが、すでに恋の関係にあるとも言えなくはない。
 真央のことまで考えてしまうと女将の立場は苦しかった。
 双子を育て、その一方に不幸があったからには、節香としては残った祐紀子に幸せになってほしい。店のことを思うと琢也は跡継ぎ。とにかく、うまく折り合いをつけてやってほしいと考えていたのだった。

 ところが当の本人たちはどこ吹く風で仲がいい。祐紀子と琢也はいままで通りの夫婦だったし、そこへ京子が加わって三人が家族のようになっている。時代が違うとは言え、節香はちょっと首を傾げてしまうのだった。
 昼すぎにそんな取材があったから、京子も景子もいつもより少し長く店に留まり、一度帰って夕方前にふたたび店に入る。そのときもちろん保育園から真央が戻っていて、祐紀子はレジぐらいしかできなくる。 そんな様子を節香はそれとなくうかがっていて、祐紀子と京子が妙に打ち解けすぎていると感じていた。姉妹のように仲がいい。女心のわからない節香ではなかった。
 京子が言う。
「今日は暇そうだからユッキーいいよ、真央ちゃん見ててあげて」
「そう? ごめんね」
「いいからいいから。あたしも経験あるもん。真央ちゃん見てないと何しでかすか知れないからね。もうすぐパパが来るから浮かれちゃってるしさ」
「そうなのよ、そわそわしちゃってじっとしてないんだもん」
「そりゃそうでしょ、可愛いもんだよ」

 そんなことをひそひそ話し、互いにちょっと触れ合って離れていく。見た目には最高の関係なのだが…。
「そう気を回すなって、仲いいじゃねえか」
「そだね、老婆心かな」
「まさにババだし。へっへっへ」
「やかまし、くそジジイ」
 蔵之介が節香に寄り添って、二人で小声で言い合った。

 オーダーを止める七時になって店の口の扉が開いた。
 秋らしい茶色のカジュアルスーツ。髪をまた切ったのか角刈りに近い男らしいヘヤースタイル。グランドで陽焼けして肌の黒い精悍な面色。革靴を履くから百九十センチを超える圧倒的なスポーツ体型。野中は真央の秋物の服を大きなスポーツバッグに詰めていて、洋菓子の入った手提げ袋を土産に持っていた。
 ドアが開いて、厨房から最初に顔を出したのは京子だった。
「いらっしゃ…ああ、野中さん! お久しぶり!」
「よっ、元気そうだな」
「うん元気よー」
 誰だとばかりに景子が遅れて顔を出す。京子が言った。
「真央ちゃんのパパ、野中さんよ」
 景子は初対面。目を丸くしてぽかんとしている。
「あ、はい、お噂は。京子さんの友だちで景子と申します」
「そうですか、それはどうも。野中です、よろしく」
 そして次に職人姿の琢也が顔を出して明るく笑う。
「どうもー」
「やあ琢也君、見る度にカッコよくなってくな」
「そうかなー? ははは、どうぞどうぞ、いま呼びますから」
 と言っているそばから、厨房から裏へと出た節香が二階へ向かって声を上げた。
「真央ちゃん、パパだよー! 降りといでー!」
「はーい! わぁぁパパぁーっ!」

 ドタバタ階段を駆け下りて、またママに叱られて、それでも真央は一目散にパパの胸へと飛び込んでいく。大きな野中がしゃがみ込み、抱き上げて頬ずりし、真央はきゃっきゃとはしゃいでいる。
「素敵ね、カッコいいパパだわ」
 野中のことはもちろん景子だって聞いている。初対面の野中に色めき立つような景子の面色を見ていて、祐紀子は鼻が高かった。
 パパが持ち込んだスポーツバッグを琢也が受け取り、そのときはもうお客の絶えた店内で、真央とパパを皆で囲む。琢也も野中とがっちり握手。男同士の仲もいいし、野中を間に女三人の仲もいい。節香は胸を撫で下ろす。互いに探り合うような妙な空気はまるでなかった。

 祐紀子が言った。
「パパさん、ご飯は?」
「いやまだなんだよ。若旦那のうどんにしようと思って楽しみにしてたから」
 琢也が祐紀子の肩を叩きながら明るく笑った。
「おっけ、いいすよー。冷やし? 温かいの?」
「温かいのがいいかな。外ちょっと冷えてるから」
「うどんだけ? 天丼とかも?」
「そうだね、じゃあ天丼も一緒に」
 節香が景子の背を叩く。
「だってさ。ほれ作ってやってな」
「はいっ! うふふ!」
 節香に言われて景子は嬉しい。琢也と二人で厨房へ飛び込んでいく。

 奥の座敷に皆で並んだ。真央と祐紀子は先に軽く済ませていたのだったが、皆で食べると真央も少し欲しいと言う。パパの箸から食べさせてもらって真央はご機嫌。八人揃った家族のような食卓だった。
「ほう? 雑誌に?」
 野中が笑う。祐紀子もまた妻のように寄り添って明るく笑う。
「そうなのよ、『若旦那の名物うどん』が載るらしい。店の前でみんなで写真まで撮っちゃってさ」
「このうどんなら胸を張れるよ。差し支えなければシーズンが終わってから主力メンバーを連れて来ますよ」
「ほんと? それ凄いかも」
 日頃はおとなしい景子でさえが浮かれている。野中の人柄、それに横浜シーシャインズの主力メンバーが来てくれて写真を撮ってサインでもしてくれれば、江戸屋はますます繁盛する。
「ま、蕎麦はこれからだがな。シャンとせいや、若旦那よ」
 と蔵之介が言うと琢也はうなずいて苦笑する。
 親方と弟子のいい関係ができている。節香はそれも嬉しかった。皆の姿を見回しながら、いらぬ心配だったと考えようとしていた。

 京子と景子が帰ったのは九時近く。食事の後、皆で少し後片づけ。蔵之介が風呂。琢也と節香が厨房に残って掃除をしていて、野中と真央と祐紀子の三人は二階に上がり、真央と祐紀子の二人が先に客間へと入っていく。
 野中は仏間に入って遺影の妻と二人きりで語り合う。
「佐紀…寂しいよ…真央のこと見守ってやってくれな」
 透き通った妻が寄り添っているなんて野中には見えない。佐紀子は穏やかに微笑んでいた。
「祐紀ちゃんとのこと許してくれるか。どうしようもなかったんだ。祐紀ちゃんはもうおまえなんだよ。真央のママだ…愛してる佐紀…」

 一足遅れて客間へ入った野中。チームロゴの入った自分のスウェットをパジャマ代わりに持ち込んでいた。普通サイズの浴衣では小さすぎて合わない。真央はパジャマ。祐紀子は普段着のスカートスタイル。まさに親子三人のぬくもりあるひとときだった。
 座卓の前の座布団に座るパパの横に祐紀子がそっと寄り添った。
「焦っちゃったわ、夜中に急に熱出しちゃって。子供の薬を用意してなかったからね」
「いきなりママだからしょうがないさ。子供にはよくあることだ、気にしなくていいよ」
「そのときね、お薬くれたの京子なの。琢ちゃんがチャリで走ってくれて」
「うむ。琢也君にもすまないことをしてる、都合よくパパをかぶせてしまってるもんな」
 祐紀子はちょっとうなずいて話題を変えようとした。
「そう言えば、佐々木さん元気?」
「元気だね。ちゃんとやってる。スタメン定着とまではいかないがチームの信頼も生まれてきてる。祐紀ちゃんに会いたがっていたよ」
「そう、よかった。今度ね、クルマ買おうかって琢ちゃんと話してた。真央を遊ばせるにしたって電車で行けるところだけになっちゃうでしょ。海とか山とか連れてってやりたいなって」

 そしてちょっと真央を見ると。
「あらら…ふふふ、寝ちゃったねー」
「みたいだな。可愛いよ、たまらない」
「ほんと親馬鹿なんだから」
 真央は大きなパパの膝に座って抱かれていて、いつの間にかうつらうつら。パパのスウェットの腕のところを小さな手で握り締めたまま眠ってしまった。二人で真央の顔を覗き込む。
「天使よね」
「うむ」
「あたし布団敷いちゃうね」
「すまんな」
 片側にとにかく一組の布団を整え、パパが抱き上げて寝かせてやっても真央は目を開けなかった。添い寝するパパの匂いを胸いっぱいに吸い込んで安心しきって眠っている。

 隣りにもう一組の布団を敷いて、パパはそっと真央のそばを離れていた。時刻は十時になろうとした。
「まだ起きてるでしょ? お茶でも飲む?」
「そうだな、じゃあ薄いコーヒーを」
「わかった」
 このとき祐紀子は佐紀子になって、横になった野中に唇を触れていく。
「佐紀」
「はい?」
「愛してる」
 祐紀子はちょっと照れて微笑んで部屋を出て行く。
 パパは隣りの真央を向いて横に寝て、布団の上から小さな体を撫でていたが、その向こうに透き通った佐紀子が添い寝していることに気づかない。

 コーヒーを二つ淹れて戻った祐紀子。パパのそばに座ると野中の手がスカートのヒップをちょっと撫でた。祐紀子はうつむいて微笑みながら、悪戯な手を抑えて動きを止めた。
「野球どうなの? 負けが多いみたいだけど?」
「そうなんだよ、ここしばらく打線が低調でね、打撃コーチとしては辛いところさ。俺が打つわけじゃないからな。何としてもCSを戦うんだって皆も必死だ。Aクラスで終わりたいからね」
「うん。ずっと一軍なんでしょ?」
「そうなりそうだ。二軍の打撃コーチが決まったよ。俺には上にいてほしいって球団からも言われてる。ファンの目もあるからな」
「現役復帰ーってアレ?」
「そうそう、あいつらなー、しょっちゅう来てやがる。嬉しいね。覚えててくれるんだよ。だけど佐紀」
「うん?」
「生き返ってくれて俺も生き返った。おまえがいないと寂しすぎる」
「うん…オフになったらそっちにも行くからね。家族なんだから、ここにべったりでもかまわないし。琢ちゃんもそう言ってる」
「琢也君が?」
「言ってるよ琢だって。真央のパパなんだし、そのときおまえは佐紀なんだって」
「そうか…頭が下がる、素晴らしい男だな」
「そう思う。あなたとは違う意味で尊敬してるもん。じゃあ、あたし向こうへ行くね」
「うむ。おやすみ」
「おやすみなさい」
 そっと抱き合ってキスをかわし、空のカップを持って部屋を出た。階段の向こう側の流しでカップだけを洗い、それからは琢也のいる部屋へと戻る。

 琢也はテレビをつけて寝転がっていた。スポーツニュースの野球のコーナー。今日は移動日で全球団試合はなかった。
「いま四位なんだな。三位まで二ゲーム差だから、いまこそまさに正念場だよ」
 着替えながら祐紀子は言う。
「いまもその話してきたのよ、みんな必死だって。佐々木さんも頑張ってるって」
「あれだけのファンがいるんだ、そりゃそうだろ。野中さんも大変だよ。俺も頑張らなくっちゃ」
「そうだよ。雑誌に載れば注目される。琢ちゃんのファンをつくらないとね」
 横になって自然に夫に抱かれていく。

「好きよ琢のこと。すごいと思うわ」

 ひとつの心を分ける愛ではないと祐紀子は思う。心に二つの愛がふくらんでいて、女心が二倍になって充満している。
 抱かれていく。夫とひとつに溶け合える。
 祐紀子はもう後ろめたさを感じない。私はいま祐紀子として抱かれているのだから。

妻は幽霊(四二話)

四二話


「ちょっととは思うんだけどねぇ…琢ちゃん明るいし不満があるようには見えないから口に出せずにいるんだよ」
「おめえとしても難しいところだな、可愛い孫のためだしよ」
「それはそうだけど…」
「ま、夫婦のことでぃ。俺っちとすりゃぁ遠巻きにしとくしかあるめえよ」
「そだね、下手に言わないほうがいいよね」
 節香は浅いため息をつきながら言う。
「あの子だんだん佐紀に似てくる。お姉ちゃんが取り憑いちまったかねぇ…」
「よせやい、おっかねえ」
 映画の前に軽く食べる。節香と蔵之介は有楽町にいた。寄り添って歩む仲のいい新婚夫婦。二人にとって映画などウン十年ぶりのことだった。

 節香は、真央が来てからというもの祐紀子は変わりはじめたと感じていた。あの子は真央を自分の娘だと思っている。真央のためではあっても野中と一夜をすごし、マンションにまで行っているという。真央中心で店のことも手につかない様子。
 そんなことでは琢也が可哀想だと思うのだったが、その琢也が落ち込む素振りもなく平気な顔をしているのだから口は出せない。
 野中だって佐紀子の夫。初孫の真央は不憫だし、野中には江戸屋の新築で大金を工面してもらっている。しかしその店の跡継ぎは琢也しかいない。もしも祐紀子とおかしくなれば江戸屋はおしまい。いろいろ考えるからよけいに口を出せなくなる。
 蔵之介が言った。
「頃合いを見て、ちょいと話してみるわな」
「そうしてくれるかい?」
「おいらも気になっていたんでね。あの野郎、仕事には熱心だしよ、問題ねえとは思うんだが」

 食事を済ませてイタリアンレストランを出る。さほど高級な店ではなかったが、それにしてもイタリアンなんて二人にはめずらしい。節香はミディアム丈のスカートスタイルだったし、蔵之介もスラックスにジャケットと、いつになく小洒落た身なりをしていた。
 若かった頃に惚れた節香。その頃の歳の差はいまでも変わらず、二人になると若い頃に戻れていく。
「行くか」
「映画なんてどれぐらいぶりだろうねー。大さんとだって滅多になかったもんだよ」
 店を出ても有楽町の真ん中で腕を組んだりできない。気恥ずかしくて何となく距離を空けて歩き出す。
「映画もいいけどよ」
「うん? 何さ?」
「ホテルでもいいんだぜ」
「なっ! 何てこと言うかね、このジジイ! ええい、もうっ!」
 節香は蔵之介の肩をこれでもかとひっぱたくが、恥ずかしそうに上目づかいで微笑んでいた。
「ンふ…ンふふ…」
「はー? おいおい」
 ほんの冗談のつもりだったのだが…。

「遅くなっちまったねー」
「おめえが寝るからだよ、グースカと」
「だって…ンふふ…」
 夕食までして帰ると電話だけはしてあった。二人が江戸屋に戻ったのは七時半近く。悪いことをしたわけでもないのに何となくそっと裏口の扉を開けてみる。

「ヒヒーン、暴れ馬だぞう、落っこちるなよー!」
「ヤだヤだぁー、きゃははは!」
「ほら真央、しっかりつかまってないと振り落とされるわよ、あははは!」

 二階から明るい声が響いてくる。節香と蔵之介は顔を見合わせて小首を傾げた。真央を間に琢也と祐紀子が楽しそうな声を上げる。真央はすっかり元気になったようだ。
「取り越し苦労だったかね?」
「みてえだな…」
 それから節香が声を上げた。
「祐紀、帰ったよー!」
「あ、はーい! ほら真央、お婆ちゃんたち帰ってきたよー!」

 二人が二階へ上がろうとすると、ジャージ姿で四つん這いの琢也の背に真央が乗り、階段の上まで迎えに出てくる。祐紀子も真央もパジャマ姿。病み上がりの真央だけ薄いニットのカーディガンを着せられていた。
「お婆ちゃーん、ジジイもーっ」
「けっ。あのな真央、そのジジイっつうの、どうにかせいや。おジイとかよ、いろいろあるだろ?」
 節香が笑って階段を登りきり、そしたら真央が馬を降りてお婆ちゃんにすがりつく。
「あらあら、すっかり元気になったんだねー」
「うんっ、元気になったぁー!」
 祐紀子が、もう大丈夫と言うように節香にうなずき、琢也は立ち上がって膝をさする。フローリングは硬くて痛い。

 節香が言った。
「琢ちゃん早かったんだね?」
「いえ、ついさっきす。七時少し前だったかな? 新宿池袋と回って夕飯まで済ませてきましたから」
 そのとき祐紀子と真央は夫婦の部屋で布団に転がりテレビを見ていたということだった。琢也に妙な様子はないし祐紀子も明るく夫に接している。昔とは考えの違う若い二人のことだから割り切っているのだろうと節香は思った。
 祐紀子がなにげに言った。
「映画どうだった? 何観たの?」
「あ…あれはね…えーと、何だっけ?」
 しまったと節香は思う。口裏合わせを忘れていた。いきなり肘で小突かれた蔵之介もしどろもどろ。
「へっへっへ、ちょっとなー」
 祐紀子が節香へ横目をやりながら、にやりと笑う。
「ちょっとって何よ?」
「まあその、ラブストーリーってヤツよ、へっへっへ。しかしだ」
「うん?」
「母さん寝ちまってよー」
「あらヤだ! 寝たのおまえさんじゃないかっ、失敬な。ふっふっふ」

 二人の部屋に入るなり、節香は笑う。
「汗かいちゃった。こういうのって慣れてないからさ」
「違いねえ。話を作っておきゃぁよかった。焦ったぜ」
「あははは、ほんとほんと。でも嬉しいさ、佐紀が逝ったとき目の前が暗くなったもんだけどね」
 着替えを終えたそのとき、和室の襖が静かにノックされた。
「母さん、ちょっといい?」
 祐紀子だった。
「いいよ、お入り」
「ううん、いいの。今度の月曜の夜だけど野中さんが来るって」
 祐紀子は部屋には入らなかった。
「あ、そう?」
「試合の移動日なのよ。それからまた遠征でしばらく戻らないからって」
「いいわよ、わかった。真央ちゃんに会いたくてならないんでしょ」
「そうよもちろん。遊びすぎて風邪ひいたって言ったら笑ってた。じゃあね」
「うん。もう寝る?」
「ぜんぜん。一日ごろごろしてたから眠くないし、これからテレビで映画なのよ。アニメだから真央に見せて、それから寝る。おやすみ母さん。蔵さんもね、おやすみなさい」
「おう、俺っちももう少し起きてらぁ」
 足音が奥へと遠ざかり、ドアが閉まる音がする。節香と蔵之介は顔を見合わせてちょっとため息をついていた。

 節香が言う。
「いまはいいんだけどね、シーズンが終わってからが心配なのよ。あの人だってこっちに来るし祐紀だって行くでしょ。真央のためにはそのほうがいいんだけどさぁ」
「気を回したってしょうがねえや。祐紀坊に限って間違ぇはねえと思うし、真央のためだ、琢也だって納得するさ。あの野郎は男だぜ」
「だといいけど。さっきも言ったけど、あの子ほんとに佐紀に似てくる。双子でも気性は違ってねー、佐紀は思い込んだらぐいぐい行っちゃうほうだから心配なのよ」

 蔵之介は苦笑して節香の膝に手をやって、お茶でも頼むと言う。節香は部屋を出て、階段を回り込んだ納戸のような部屋に立つ。そこには小さな流しがあって湯を満たしたポットが置かれる。そしてそこに洋菓子の袋があるのを見つける。琢也が買ってきたのだろう。子供の好きそうなチョコレート菓子だった。
 お茶を淹れて菓子を二つ盆に載せ、部屋へと運ぶ。先代が逝ってから、こうして二人分を運んだことがない。
「お父さんお願いね、江戸屋を守って」
 小声で薄闇のかなたへ言って、節香は夫との思い出を振り切るようにお茶を運ぶ。

 あぐらをかいて下に座り、パジャマに着替えさせた真央を膝に抱いてテレビを見る夫の姿をうかがって、夫は真央を可愛がってくれていると感じる。後ろから抱いてやって頭を撫でたりしていると真央も頬をすり寄せて甘えている。お兄ちゃんとしか呼んでくれなくても父と子の姿そのもの。微笑ましいし、この暮らしを壊してはいけない。
 午前中早くに出かけ、ちょっと遅く戻った夫だったが、何をしていたなんて詮索するつもりもなかった。京子ともしもいい関係になれるのならそれもいい。真央のことさえ愛してくれるのなら私の中の姉は許すと感じたし、祐紀子としてだって夫のことは言えないと思うのだった。
 この江戸屋に必死でいてくれればそれだけでいい。

 テレビが済んで真央を寝かせる。琢也が添い寝をして寝かしつけ、その間に祐紀子は風呂。戻ってみると真央はすっかり眠っていた。
 琢也は滲むような笑顔で真央を見つめて言う。
「元気になってよかったな」
「ほんとよ。明日からまた保育園だわ」
「子供がいると風邪をもらってくるらしい。景子さんも言ってたけど小さいうちはよくあるって」
 うなずいて話題を変える。なぜか、そうした。
「ところで、お蕎麦はどう? できそう?」
「難しいよ、うどんとは違う。蔵さんも言ってたけど、まずは三年かかるって。覚えることはたくさんあるから」
「うん、頑張って」
「わかってる。そのために店が新しくなったんだ。みんなの幸せがここにあるからね」
「そうね。でも…ふふふ、母さんたち映画じゃないわね」
「やっぱりそう思う?」
「思うよ。しどろもどろだったじゃない。どこへ行ったなんて訊くんじゃなかった」

 寄り添って抱き合って、浅いキス。微笑み合ってまた抱き合う。
「だけど、お義母さんよかったな。先代が亡くなってからずっと独りでやってきた。どんなにか心細かったと思うよ」
「お姉ちゃんのこともあるしね」
「そうだよ、それが最悪さ」
「でもそれで孫と暮らせるようになったし、蔵さんとのことにしたって決心がついたというのか。お店だって新しくして嬉しいし」
「まあね。悪いことばかりじゃないけど、人生っていいことばかりじゃないってことさ。野中さんだって怪我で人生変わっただろうし」
「それを言うなら琢ちゃんじゃない、いきなり蕎麦屋なんだもん。あ、そうだ、ねえ琢」
「うん?」
「浜松のお義父さんお義母さん呼んであげたら? 心配なさってるでしょ?」
「そのつもりだけど、しばらく待てって言ってあるんだ。もう少しできるようになって安心させてやりたいから」
「そっか」
 祐紀子は抱きすがったまま目を閉じて動かなくなっていく。真央の風邪でちゃんと寝ていないのかもしれない。琢也はそっと妻を抱いて背中を撫でてやっていた。

『やさしいねー』

 ゾワとした。後ろから透き通る妻が抱いてくれる。首筋にひんやりとしたゾワがやってきて、琢也はちょっと震えていた。京子とのことで言い逃れができなくなった。
 温かい妻と冷たい妻に挟まれてしまっている。
『いい子でしょ京子って?』
 後ろから頭をこつんとやられたような感触がある。けれども佐紀子はそれ以上を言おうとはしなかった。
『あたしちょっと浮気してくる』
「野中さん、少しは元気になったかな?」
『なったなった。彼って独り寝のとき枕抱いて寝てるのよ。真央に会いたくてならないの』
「うん。佐紀ちゃんにもね。俺なら泣いてる」
『そうそう。ふふふ、いい奴だよ琢ちゃんは。ちょっと行って寝かしつけてくるからさ』

 首筋にキスでもされたようでゾワっとした。次の一瞬、佐紀子は消えてしまっている。

妻は幽霊(四一話)

四一話


 姉の子をもらったつもりでいた。何かにつけて、こういうとき姉ならどうするだろうと佐紀子になったつもりで考えようとしていたのかもしれなかった。
 自分の子じゃないから…と言われたことで、私は姉にはなれないと痛感する。姉のためではあっても、それよりもっと大きなものがある。野中の子だから育てていけるし、彼の妻だった姉には何が何でも負けたくない。
 野中さんが好きだから…孤独の底にいる彼と真央を救えるのは私しかいないと祐紀子は思う。

 その夜また少し熱が上がった。ふぅふぅ苦しそうな息をする。子供だったあの頃、風邪をひいたことを思い出す。熱が三日ほど続いた記憶がある。なのに店に必死だった母親はろくにかまってくれなかった。
 布団から小さな手を出して鉄棒を握るように人差し指を握る真央の手をそっとつつむ。幼子らしい柔らかな手。可愛くてたまらない。
「明日にはよくなるからね。ママも悪かったんだけど遊びすぎちゃったみたい、ちょっとはおとなしくしてないと。いいわね真央」
 真央はちょっと笑って目を閉じた。ほっぺがまだ少し赤い。夕べからの発熱で体力を奪われていて身動きするのも辛そうだ。

 仕事を終えた京子と景子が着替えを済ませて部屋を覗いた。
 景子が真央の額に手を置きながらそばに座って言う。
「まだちょっとあるわね」
「そうなのよ、七度六分ほど。少し上がった」
「うん。明日になれば大丈夫よ、二晩はかかるものだから」
 景子は微笑んで祐紀子の手に手を重ねた。
 京子が言う。
「じゃあ、あたしらそろそろ」
「ええ、お疲れ様ね、明日もお願いします」
「わかってるって。お大事に」
 景子の前だからか京子はそれだけ言うと、目配せのようなウインクをしていった。京子がいてくれることは心強い。子育ての先輩でもあり、もともとが姉の友だちで江戸屋との付き合いも長かった。

 二人が帰るのを待ったように、割烹着を着たままの姿で節香が顔を覗かせる。可愛い初孫。顔を見ないと片づけも手につかないようだった。
「七度六分か…明日も保育園休ませないとね」
「もちろんそうする。もう一度お医者にも連れてくし」
「そうしなそうしな。ふふふ、それにしても…あーあ」
 節香は寝ている孫にじとりとした視線を向けた。
「何よ? その『あーあ』って?」
「あんたたちの子供の頃と一緒だなぁって思ってさ。どっちかが風邪ひくと、よくこうして一緒に寝てたもんだから。決まって一緒にダウンだもん。ふふふ、可愛いなぁ」
「ちぇっ、何言ってるのよ、ろくにかまってくれなかったくせに」
「だっておまえ、あのときはそれどころじゃなかったもん。さて、あたしゃちょっと片づけがあるからさ」
「都合が悪くなると、とんずらだもんねー」
「あはは、そりゃおまえ家系だわ。しょうがないしょうがない。あははは」
 母は若返ったようだ。初孫がやってきて、蔵之介とも結ばれて、江戸屋の跡継ぎもできている。
 ここで私が揺れてはいけないと祐紀子は思った。

 その夜、夫婦の甘い夜が持てていた。どちらが求めたわけでもなく、あたりまえのように溶け合えた。
 すぐそばの布団で真央が眠り、パジャマ姿の透き通った佐紀子が娘に添い寝をし、妹夫婦のナニには背を向けて横たわる。
 琢也は祐紀子をそっと抱きながら、妻の肩越しに透き通る妻を見ていた。

『済んだみたい? ひひひ』

 向こうを向いたまま声を発し、一瞬後に琢也の背後に寄り添っていて、姉妹で夫をサンドイッチ。
「なんかこう…ゾクっとするんだよなぁ…」
『あら、どして? 二人の妻だよ、身のほど知らずめ』
 琢也は苦笑するしかない。
 しっかりした抱擁の感触と、何となくゾワとする背後からの抱擁と。
 上を向いて寝直すと、左右に生き写しの妻とお化け。どっちを見ても意味は違うが何となくゾッとする。
 祐紀子に対してかすかな後ろめたさを感じていたからかもしれない。

『幸せだなぁ』

 ふいに聞こえたテレパシー。琢也は目を開けて透き通る妻を見た。
『夫が二人いて、どっちも真央を愛してくれてる。二人の夫にはどちらにも妻が二人いて…」 と言いながら、透き通った白い手が琢也の額をこつんと叩く。
「何で叩くん?」
『琢ちゃんだけ三人じゃん。ふんっ』
 どきりとした。京子とのことを佐紀子はやはり見抜いている。佐紀子はニヤリと笑っていて怒っているふうでもない。
『それはいいのよ、ユッキーだって許すと思う、遊びじゃないんだもん。気持ちが動くと止められないし』
「もうやめよ」
 言葉の途中で琢也は言った。
「野中さんの気持ちはよくわかるし、そんな彼に愛情を注ぐ祐紀ちゃん
は俺の誇りだ、やさしい人だよ」
 佐紀子は、琢也の眸をまじまじと覗き込んで微笑んだ。

『おしっ、寝るかいっ』
「ふふふ、うん寝よう」
『ねえ琢』
「うん?」
『京子って、いい子だよ』
 琢也は何も言わず透き通った佐紀子を抱こうとしたが、手がすり抜けて自分を抱くことになる。

 野中を狙った京子を攻撃した佐紀子。その組み合わせだと真央は母親を替えなければならなくなる。
 女の激しさを見せつけられた思いがしたし、それと同じ激しさを祐紀子だって持っている。
 そう思うと実体のある妻がいとおしい。眠ってしまった妻をそっと抱き寄せて、そしたら祐紀子は夫にすがるように胸に頬をすりつけてくる。
 透き通る妻はすーっと消えていなくなる。独り寝の野中のところへ行ったのだろうと考えた。

 翌々日の水曜は江戸屋の休み。三日経って真央の熱は下がっていたが病み上がりで元気がない。朝食の後、琢也が出かけ、節香と蔵之介もしばらくして映画に行くと言って家を出た。ママだけが家に残って娘といる。
 琢也は久しぶりの新宿だった。浅草に暮らすようになってからほとんど来たことがない。地下鉄から地下を抜けて歌舞伎町側に出ると、そこには京子もよく知るセルフのカフェがある。

「待った?」
「少しね。でもいいの、こっちって久しぶりだわ」
 京子はかなりなミニスカートスタイルで、あのとき野中に逢いに行ったのと同じようなデートファッション。琢也を見つけると京子は穏やかに微笑んだ。
「帰りは? いつもの時間?」
「そうだけど、今日は夕方になるかもって言ってあるから」
 コーヒーを少し飲んで店を出る。予定は決めていなかった。映画でもいいしデパートなんかを歩いてもいいと思っていた。
 琢也はコットンパンツにシャツとジャケット。スニーカーっぽい茶色のソフトソールを履いている。

 店を出ると京子の手がごく自然に腕に回る。
「さて、どうする?」
 京子は上目がちにちょっと笑う。探るようなニュアンスのある視線。
「どうしよっかなー。こういう感覚って久しぶりよ、デートなんてなかったしぃ」
「俺だってそうだよ」
「あたしと一緒で嬉しい?」
 かすかだが怯えるようなニュアンスのある京子の眸。琢也はちょっと笑ってうなずいた。透き通った佐紀子に見抜かれていたことで、むしろ
気が楽だった。
 京子が言った。
「ヘンなふうに思わないでね、琢ちゃんのこと奪おうなんて思ってないから。たまにはこういうこともないと寂しいもん」
「わかるよ。出会えていながら、ことさらそっぽを向くのは違うと思うし」
「出会えていながら? そう思ってくれてたの?」
「やさしくしてくれて嬉しかった」
「…琢ちゃん…あたしもよ、逢ってくれて嬉しい。どっかでゆっくりお話したいな」

 二人寄り添ってホテルのある方角へと歩いていく。

 野中とのことは許せた。透き通る佐紀子にも言ったように孤独にもがく野中を救えるのは祐紀子しかいないし、それは可愛い真央のためで
もある。初孫の幸せを願うお婆ちゃんのため、もちろん江戸屋のためにもなることだから。
 そっちがそうなら俺だってという気持ちがないと言えば嘘になるが、琢也は京子を好ましく思っていたし、佐紀子に攻撃されたことで、守ってやりたいと感じるようになっていた。
 離婚して寂しさを噛んで生きる京子に自分と同質の弱さを感じていたのかもしれなかったが、京子を愛せば祐紀子のことも無条件に許せるようになると思うのだった。

「口惜しいよね琢ちゃんも」
 琢也はそうじゃないと首を振る。
「最初はちょっとあったけど、いまは違うよ。祐紀ちゃんには佐紀ちゃんの人生も歩んでほしいと思ってるんだ」
「Lの人生?」
「そう。真央ちゃんを中心に違う幸せがあるんなら、どっちも知ってほしいんだ」
「でもそれって自虐的じゃない?」
「違うよ、そうじゃない。大きなうねりの中にいて、寄り添うことでもっと幸せになれるんなら、祐紀ちゃんには佐紀ちゃんの幸せも同時に追ってほしいし、京子ちゃんだってそれはそうさ」
「琢ちゃんの幸せもそうだよね?」
 琢也はちょっとうなずいてジャケットを脱ぎにかかる。後ろから京子がそっと寄り添った。
「重い言葉はやめましょうね」
「うん。口先じゃないさ、大切な人であればいい」

「好き」
「うん、俺も」
 口づけ。静かだった抱擁が男女の激しいものへと変わっていった。

「ううん、熱はもうないんだけど、いまおなかいっぱい食べて寝ちゃってる。食べさせて体力つけてあげないと」
「ああ頼む、そうしてくれ」
「わかってるって。早く来て、可愛いわよー。月曜日には大丈夫なんでしょ?」
「もちろん行くさ」
「このあいだも言ったけど江戸屋に遠慮しないでね。琢ちゃんだってわかってるし、母さんだっていつ来たっていいからって言ってるし。母さんなんて孫が笑ってるだけでデレデレなんだから。すっかりお婆ちゃんやってるわ」
「ふふふ、そうか。ありがとう。江戸屋に足は向けられないな」
「よしてよ、そんな言い方。家族なんだもん」
「愛してるよ佐紀」
「はい。私も。あなたが好き」
「オフにはこっちでもゆっくりしような。旅にも出たいし」
「そうね。そうそうべったりってわけにはいかないけど行けるようにするから、いまは野球で頑張って。佐々木さんにもよろしくって」
「わかった、じゃあな」
「うん、待ってるからね」

 日曜までは横浜スタジアム。月曜が移動日で神宮球場で三連戦。その後また遠征で広島と大阪を回り、戻って名古屋のチームとホームで戦う。シーズン終盤、コーチはいよいよ気が抜けない。
 電話を切って携帯を胸に抱き、手放してテーブルに置いた瞬間、佐紀子は江戸屋の祐紀子に戻っていた。
「都合のいい女だわ。琢ちゃんごめん、あたしだんだんお姉ちゃんに似てくるの。ずるがしこい」

『…おいおい』

 そのときテーブルに置いてあったボールペンが転がって、素足の甲を直撃した。声はもちろん祐紀子には聞こえていない。
「あ痛っ! さては聞こえたか…ふふふ。お姉ちゃんのせいだからね、好き勝手して死んじゃうからよ」
 足の甲をさすりながらボールペンを取り上げて、祐紀子は笑った。

「お姉ちゃんの残したもの、みんなもらうわ。私の中にお姉ちゃんが生まれちゃった。ふふふ、物は言いよう…都合よく生きてくことに決めたんだから」

妻は幽霊(四十話)

四十話


 夫との寝室に佐紀子を持ち込まないようことさら意識する心の変化が生まれていた。

 妻との寝室に京子を持ち込まないよう割り切ろうとする男の狡さが生まれていた。

 しかし平穏な夫婦生活のためには互いに相手に見せない部分があったほうがいい。人を許容するとはそういうこと。許さず問い詰めることは賢くない。月の裏側を見ようとせず、見える部分だけで美しいと感じてやることが夫婦円満の秘訣なのかもしれなかった。

 今夜は静かな夜だった。真央は遊び疲れて眠っていたし、琢也は昨日と今日で疲れきって眠りたがる。
 祐紀子だけが浅い眠りの中にいた。琢也は求めなかったし拒んだわけでもなかった。祐紀子のかすかな迷いに気づくこともなく素直に眠りに落ちていく。それで微妙な緊張が解けたというのか、少しは心も軽かった。
 うつらうつら。意識が消えかかって戻ったとき、祐紀子と佐紀子を行き来している自分に気づく。祐紀子として眠り、ハッと目が開くと佐紀子になった自分を感じる。

 祐紀子として歳月を生きてきた。けれども佐紀子としてのキャリアはない。自分の中に突然生まれた姉の人生をどう生きるべきなのか。そんなことばかりが頭に浮かぶ。
 野中の部屋へ行きさえすればいつでも佐紀子を生きられる。鏡を見たって遺影の姉と寸分違わず、着る服だって、その気なら下着でさえもそのまま着られる。野中は疑いもなく佐紀子と呼ぶだろうし、真央はママと呼んでくれる。

 と考えたとき、妙なことに気づくのだった。祐紀子としての私自身をどう生きるかが問題なのだと…。
 そこを間違うとどこにでもある不倫になってしまうだろう。夫の前では祐紀子に徹し、野中の前では佐紀子を生きる。曖昧に考えていたことがきっぱりカタチになってきた。
 ただ、体はひとつしかない。野中の記憶を留めたまま琢也に対してそれまで通りの妻でいられるのだろうか。堂々めぐりに思考が回り、やっぱり混乱してしまう。祐紀子だけが眠れそうにもなかった。

 ふと見ると、真央が横を向いて丸まって寝ていた。薄い布団に首までくるまっている。寒くはないと思うだが。
 起き出してふと体に触れてみると熱かった。おでこが熱い。寝てはいても苦しそう。汗をかいてパジャマが湿ってしまっている。そのとき時刻は深夜の二時をすぎていた。
「ぅぅ…ママぁ…」
「どうしたの? 苦しいの? お熱あるよね。ねえ苦しい?」
「寒いのぅ」
「うん、わかった、ごめんね、ママがいけなかったの、ごめんね」
 朝早くからナイターが終わるまで遊び通しで疲れたのだ。ディズニーランドを走り回って汗をかき、ナイターで冷えたのだろうと考える。風邪をひかせてしまった。風邪薬はあるが大人用。しまったと思う。幼児のための薬がない。

「どうしたの? 具合悪いんだ?」
 琢也が起きた。
「そうみたい、熱があるんだ。汗かいちゃってびっしょりなのよ」
 明かりをつけると真央のほっぺが赤い。琢也は額に手をやって言った。
「ちょっとあるな、冷やしたほうがいい。とにかく着替えさせてやりな。薬とそれから氷枕用意する」
「大人用の薬はあるんだけど大丈夫かな?」
「わからん、説明書読んでみるさ」
 祐紀子は涙が出そうだった。突然ママになって、こういうときどうしていいかわからない。オロオロするだけ。
 琢也が階段を急ぐ気配で節香が目覚めた。氷枕と、洗面器に氷水をつくって階段を上がったとき節香が出てくる。
「どうしたの? 真央ちゃん?」
「ちょっと熱があるんです、子供用の薬がなくて。五歳以下は服用するなって書いてある」
「困ったわね、お医者といってもこんな時間じゃいくら何でも」

 節香は琢也と一緒に部屋を覗いた。
「どう?」
「八度四分もあるのよ」
「あらら。子供は急にくるからね、可哀想に」
 赤い顔をする真央の額に手をやって言う。
「あったかくして、とにかく冷やして。お薬があればね、困ったな」
 そのとき琢也が言った。
「京子さんに電話してみる、子供がいるから持ってるかも」
 琢也は携帯に向かった。

「え、ある? 子供用の解熱剤もある? あ、そう、助かる。うん、すぐ行く。いやいや君はいい、俺が取りに行く。こんな時間にごめん、ありがとう」
 琢也は着替えて飛び出して行った。ママチャリだ。それほどの距離はない。
 祐紀子は恥ずかしい。子供用の薬を常備しておくなんてあたりまえのこと。そこまで気が回らなかった。ただの風邪だとわかっていても、野中に対してだって顔向けできない思いがする。
 いや、そんなことはどうでもいい。これ以上ひどくなったらどうしよう。祈るような想いだった。

 自転車を飛ばしながら琢也は心の中で佐紀子を呼んだ。
「佐紀ちゃん、守ってやって、頼む」
 ところがクソお化け。
『あははは、焦ってる焦ってる。風邪ぐらい平気よ、よくやるんだ真央って』
「ったく呑気なことを。俺はいいから真央についててやりなよな」
『あれー? 呼んだのオマエじゃん。 言われなくたってついてるわ』
「うぐぐぐ、ああ言えばこう言う…可愛くないお化けだよ!」
『お化け言うな。まあ頑張って漕ぎなよね、遅い遅い、あははは』
「やかまし! これでも必死だ!」

 しかし佐紀子が笑ってくれたことで、ちょっとは気が楽だった。
 京子の家も古くからある小さな戸建て。自転車のヘッドライトが揺れると、京子はパジャマ姿に一枚羽織って家の前で待っていて、手を振った。
「ごめん、ありがと、俺すぐ戻るから」
「気をつけてよ、琢ちゃんが事故ったら話にならないからね」
「わかってる、夜中にごめん」
「いいわよ、そんなこと。新米ママだからしょうがないわね」

 即座にUターン。飛ばして十分ほどなのだが、こういうときは遠い。

 戻ってみると、額を冷やして気持ちいいのか、真央はおとなしくなっ
ていた。蔵之介までが取り囲んで心配そう。一度起こして薬を飲ませ、そっと横たえてやると、真央は布団から熱い手を出してママの指をしっかり握り、眠ってしまう。
 その手を撫でながら祐紀子が節香に言う。
「保育園休ませるね、朝すぐお医者に連れてくから」
「そうしておやり。もう大丈夫だとは思うけど」
「だといいけど…ああ、あたしダメだわ、自信喪失…」
 節香も蔵之介も部屋へと戻り、琢也と二人。
「ごめんね、もう寝て、あたし看てるから」
「しかたないよ、気にしない気にしない」
「するよ。ママ失格だもん、悲しい…」
 涙が出てくる。可愛がるだけでは育てられない。野中とのことにしても浮かれていたと反省する。数日すればパパが来る。それまでによくなっていてほしい。
 薬が効きだしたようだった。息が楽そう。顔色も少し普通に戻ってスヤスヤ寝ている。

 翌日、京子はいつもよりずっと早く、十時頃に顔を見せた。
 そのときちょうど祐紀子が下にいて、六人席に座って節香と話し込んでいた。琢也と蔵之介は麺打ち台にこもっている。節香も男二人ももちろん作務衣に着替えていたが、祐紀子一人が普段着のままだった。
 京子の顔を見るなり、祐紀子は席を立って手を握った。
「夕べはありがとね、夜中にごめん」
 京子は笑って言う。
「ううん、ぜんぜんよ。それより、どう? お医者行った?」
「行ってきた。ただの風邪みたい。お薬飲んで上で寝てる」
「熱は?」
「ちょっとある。いま七度三分ほど。今夜あたり、もう一晩上がるだろうって先生が言うのよね」
「まあね、子供は二、三日続くから。でも大丈夫だって、気にしすぎよ、よくあることだもん。自分の子じゃないから気にするのはわかるけど」

 京子にすればなにげに言った言葉だったが、祐紀子にはグサリと刺さる。
 ママのつもりでいても母にはなれない。突きつけられたような気分になる。しかし京子の言うこともわかる。祐紀子はなおさらグラついた。
 そんな祐紀子の肩をちょっと叩きながら京子は言う。
「平日だし、お店のことはいいから真央ちゃん看てて」
「うん、悪いけどそうさせて。何も手につかないもん」
 祐紀子が二階へ上がって行くと、京子が節香に言う。
「ユッキーちょっと可哀想かも。気持ちわかるし、あたしだって最初の頃はそうだった。小さい頃ってしょっちゅう何かがあるからね」
「そうね、それはそう。心の準備もなくていきなりだもん、オロオロになっちゃうわよ。それより京子、夕べはありがと、助かったわ」
「とんでもないです、友だちの娘なんだもん。佐紀に会いたいなぁ。さあ、着替えるかっ」

 京子は席を離れるとき、麺打ち台へと眸を流した。蔵之介がそばについて琢也がコネ鉢に向かっている。うどんではなく蕎麦だろうと京子は思った。真剣そのもの。白い和帽子をかぶった若い職人姿がカッコいいと感じていた。

 二階。夫婦の部屋は二階のいちばん奥にある。着替えた京子は、いつものように遺影に手を合わせ、それからちょっと奥を覗いた。
「うふふ、可愛いなぁ、ぐっすりだもんねー」
「うん、安心してる。上がってきたらちょっと目を覚ましてね」
「ママぁって?」
「そうなのよ。手を握ってさ、しばらくしたらグーだもん」
「ちょっと遊びすぎかな?」
「ナイターよ。少し風もあったし、叫びまくってたから疲れたのもあるんじゃない。失敗したわ、子供ってこうなんだって思っちゃった」
「キャリアよキャリア。ウチの子もそうだった。ここらのお祭りでぶっ飛ばして風邪ひいちゃって大変だったんだから。いまはもう大丈夫だけど五歳ぐらいまでは弱いから」
「みたいね。元気だから、まさかって感じだった。うかつだったなぁ。あーあ、自信なくしちゃった」

 京子は笑う。
「わかるわかる、そうやってちょっとずつママになっていくものなのよ。真央ちゃんのママはユッキーよ、Lじゃない。じゃあ、あたし」
「うん、下お願いね」
「大丈夫だって。景子も来るし…あら? 雨?」
 話していると雨音がする。窓から覗くとアスファルトに雨粒がばらまかれていた。
「ありゃま。今日は暇そう。じゃね」
 京子が出て行くと、人の動く気配を感じたのか、真央はまた布団から手を出してママを探る。指を持って行くと鉄棒を握るように小さな手でしっかりつかみ、ちょっと微笑むようにして眠っていく。
 添い寝するつもりもなかったのだが、ちょっと横になって真央の額に手をやると熱はずいぶん下がっていた。

 ほっとした。夕べはあれから寝ていない。真央の寝息を聞くうちに瞼が重くなってくる。
 こういう思いをして母さんは私たちを育ててくれた。姉と二人ですごした時間が夢のようによみがえる。あの頃は店のことで母さんは必死だった。風邪ぐらいでこれほどかまってもらった記憶がない。
 この場にもしも野中がいたらと考えると可笑しくなる。間違いなくしどろもどろになってしまうだろうと思えるからだ。

 母と娘が身を寄せ合って眠っていた。
 そしてその傍らに、白い死に装束の佐紀子が正座で座っていた。

『ああ真央…可愛いなぁ…もっと一緒にいたかったなぁ…』

 透き通る佐紀子は、涙をいっぱいに溜めていた。

『ユッキー、ごめんね…真央のために生きてもらうわ。真央にはパパも必要なのよ。ほうらユッキー、野中のことが好きになる…どんどん好きになっていく…ほうらほうらエッチがしたい…てか? うひひひ』

 お化けのくせに催眠術を覚えたようだ。

妻は幽霊(三九話)

三九話


 次の日は朝食をホテルで済ませ、野中は一度自宅マンションへと戻る。JR川崎駅から遠くない。近くには、この先東京という多摩川が流れていて、川崎競馬場や川崎球場などもすぐそばだった。
 泊まったのはランドマークタワー。首都高に乗ってしまえばたいした距離でもなく、野中のBMWはマンションそばの立体駐車場に滑り込んでいた。マンションに付属するパーキングは機械式で不便。すぐそばにある平置き駐車場を二区画借りていた。
 BMWが滑り込むと、隣りのスペースにジープタイプのロングボディが停まっている。ボディカーラーはダークシルバーメタリック。一軍コーチとなってからほとんど乗っていないらしく、洗車されたままうっすら砂埃がかぶっていた。

 十二階建てマンションの十二階。4LDKの部屋だったが、リビングは広い。祐紀子は姉の面影を追うように、しかしちょっと緊張して部屋へと入った。
 この部屋はもちろん知っている。何度か遊びに来ていたし、選手だった頃の野中も知っていた。その頃は佐紀子がいて、考えてみれば野中と二人になったことがない。
 姉の幸せを喜びながらも、かすかな妬みのようなものがあったのかも知れなかった。琢也と付き合うようになってからは訪ねていなかったし琢也を連れてきたこともない。

 部屋はいくぶん雑然としていた。女手を失った男の部屋。
 祐紀子は胸が痛かった。二人の夫に一人の妻。思い描くだけだったものが昨夜を境に現実になりそうだった。
 真央は嬉しい。パパとママが二人揃った広く明るい部屋なのだから。
 立ち寄った名目は秋からの真央の服選び。横浜スタジアムでの連戦の後、ふたたび神宮球場での試合があるから、そのとき野中が運ぶことになっていた。
 午前中しかいられない。午後すぐに野中は出かけて練習がある。
「祐紀ちゃん、佐紀のもので欲しいものがあるならあげるよ。今度運んでやるからさ」
「うん。でもいまはいい」

 真央が見ている。真央の前では野中だって佐紀とは呼べないし、祐紀子も佐紀子にはなりきれない。姉との愛の巣へ寄ったことで、なし崩しになっていく。この部屋で佐紀になりきり、野中は夫へと変わっていくだろう。
 琢也ごめん、どうしようもなかったの…佐紀子の着ていた服や、とても着られないと思うようなセクシーな下着を見ながら、祐紀子の胸は騒いでいた。
 真央を愛し、姉を愛し、だからいま孤独の底で泣いている可哀想な彼を放っておけない。この部屋で私は佐紀子。心を鬼にしてそう言い聞かせていたのだった。

「出たら左に線路が見えるから。まっすぐ行けば川崎駅だよ」
「うん、わかった。さあ真央、パパはこれからお仕事だから、私たちは行くよ」
「うんっ、ちょっと待ってぇ」
 明るく笑いながら真央はトイレへ走って行った。
「佐紀」
「はい。もう苦しまないでね」
「うむ大丈夫さ、愛してる佐紀」
「はい」
 圧倒的な野中に抱かれて体がしなる。口づけを受け取って、震えるほどの感情が湧き立ってくる。

 トイレのドアが開いて、ちょっと乱暴に閉められた。
「ダメでしょ真央! ドアはやさしくしないとダメよ!」
「はぁい、ごめんなさーい!」
 トコトコとやって来て、最後にパパの胸に飛び込む真央。野中は頬を擦り寄せて泣きそうな顔をする。
「じゃあ祐紀ちゃん、また」
「うん。行くわよ真央」
「はぁーい!」
 玄関先で真央はパパに手を振ったが、エレベーターまでパパは送った。エレベーターが閉じたとき、祐紀子は言いようのない想いに崩れてしまいそうだった。

 電車に乗って思い浮かぶのは京子の貌色。琢也に対して油断ならないと思っていたし、野中もことももちろん好き。その両方を私が奪ってしまったら、きっと敵意が向けられる。
 もしも彼女と琢也がどうにかなっても、それを非難する資格は私にはない。むしろそうなってくれた方が気が楽か。
 二人いる夫へ割り切った愛を向けていけるほど強い女にはなれないと思う。
 姉さん助けてよ…どうすればいい? 姉さんが悪いのよ、真央ちゃん残して逝っちゃうから。この子はもう私の娘。どっかの誰かに渡すなんて、そんなの嫌よ、絶対イヤ!
 話しかけても佐紀子は応えようとはしなかった。

 帰りがけに上野に寄って昼食を済ませ、いよいよ江戸屋が近づいてくると、後ろめたい想いを断ち切るように、むしろ奮い立ってくる。
 私が崩れたらどっちもこっちも壊れてしまう。琢也は江戸屋の娘の夫だわ。必死に頑張って蕎麦職人を目指す彼を支えてやりたい。
 そうするしかない。姉と私、二重人格に徹するしかないと奮い立つ。 江戸屋が見えてきたとき時刻は昼の二時すぎだった。今日は日曜、天気もいいし、店の状況は覗くまでもないことだ。
 店の表に並ぶお客の列を見ながら裏口から入る。厨房は殺気立っていた。祐紀子は、佐紀子になりたがる自分を振りきった。

「ただいま」
「ああ祐紀ちゃん、楽しかった?」
「うん、それはもう、真央も大はしゃぎで」
「うんうん」
 琢也だった。明るい。京子も景子もフル回転。節香もそうだし蔵之介もそうだ。
 やっぱり江戸屋はいい。私の家だと祐紀子は思う。
「ごめんね、すぐ手伝うから」
 そのとき厨房から節香が笑って言う。
「レジだけでもお願い、助かるからさ」
「はい、ごめんね母さん」
「なあに平気平気っ、気にしない、あっはっは!」

 祐紀子は、二階に上がると真央を着替えさせ、自分も作務衣に着直して真央を連れて下へと降りた。店は満員。四人席、六人席、それに座敷にも相席がでている。
 真央を厨房横に座らせておきレジに立とうとすると、近所のおばさん二人が四人席の相席の中にまぎれていた。
「祐紀ちゃん」
「あらおばさん、いたの?」
「そうなのよー、少しは空くかと思って時間を外したんだけどねー。真央ちゃんとディズニーランドだったんだって?」
「そうなんですよ、それと野球も」
「ああパパの?」
 と、声がちょっと小さくなる。
「そうです」
 自分の話が出たことで真央が眸を輝かせてこちらを見ている。

 そしてそのとき相席だった二人が立って、祐紀子がレジに、琢也が飛んできて済んだ器を下げにかかる。
「真央ちゃん、おいでな」
 おばさんの一人が手招きすると、弾けるように笑って真央がくる。
「真央ちゃん見ててあげるからさ」
「あ、はい、すみません、じゃあちょっとお願いしますね」
 空いた席に真央を座らせ、祐紀子はレジをしながら言う。
「真央、いい子にしててね」
「はぁーい! 真央いい子だもんっ!」
「ほんとほんと、いい子だもんねー真央ちゃん」
「なんて可愛い子かしらねー。だけど祐紀ちゃんも大変よね、お店と両方で、お店は繁盛しちゃってさー」
 そのとき祐紀子は、そばへ来た京子の面色をうかがった。
 京子もまた真央の頭を撫でてほがらかだったし、琢也も笑って様子を見ている。
 気を回しすぎかもしれないと感じた。野中とのことが店に響くのがいちばんまずい。

 次々にお客が出て行き、琢也と京子でテーブルを片づけて、祐紀子が外へと顔を出す。
「お待たせいたしました、お次の三名様、お二人様、どうぞ」
 列にはさらに後ろがいて、残りまだ三組。古い店のときにはなかったことだ。次の五人が店に入ると、蔵之介が厨房から飛び出してくる。
「こりゃたまらん、蕎麦が足りねえ」 と言いながら真央を見つけて歩み寄る。
「おおっ真央、そこにいたかっ」
「うんっ!」
「そかそか。でもよ、その二人にゃ気をつけろー、鬼婆だぞーっ、食われるぞーっ!」
「んまっ! 何てこと言うかね、くそジジイ! いつまで生きてるつもりだいっ! あっはっは!」
 無関係なお客までがどっと笑う。
 蔵之介が麺打ち台に立って蕎麦をコネはじめると、アジア系の観光客の三人連れが席を立って覗きにいく。
 店は活気に満ちていた。その中で、いっぱしに厨房と店をこなす琢也が眩しい。

 三時をすぎてようやくお客が途切れだす。一時間の休憩。少しでも閉めなければ仕込みが間に合わない。日曜日は夕刻前からお客が動く。麺職人がもう一人欲しいほど。蔵之介が蕎麦を打ち、琢也が横に立って真剣に見つめている。
 女たちにも仕込みがある。天ぷらの下ごしらえをしておかないとならなかったし、夜には小料理でちょっと飲むお客もいる。店を閉めていても休む間もない。
 祐紀子も、テーブルに割り箸や爪楊枝を補充したり、唐辛子を足したりする仕事がある。小さな真央が隣りに座ってじっと見ていた。
「ほら、こうやってね、お箸を足しておくのよ。こっちは唐辛子。中を見て減ってたら足しておくの。わかるでしょ?」
「うんっ、わかるぅ!」
「はい、じゃあこの唐辛子、テーブルに配ってくれる」
「うんっ、真央もやるぅ!」
 三歳半とは思えない。真央は賢い。小さな手にひょうたん型の唐辛子を握り締めて、テーブルを回って椅子によじ登り、置いて行く。
 懐かしい。小さかった頃、姉と二人で同じように手伝ったものだと祐紀子は思う。

 下ごしらえを女二人に任せておいて節香が出てきて横に座った。
「ふふふ、手伝ってるねー、真央」
「うん、可愛いったらありゃしない」
 あっちへ行ったりそっちへ行ったりする孫を、目を細めて見つめながら節香が言う。
「蔵さんが琢ちゃんに蕎麦を教えるって」
「もうなの? できそう?」
「いえいえ、とてもとてもよ。けどスジがいいから教えていくって。あたしもそう思うよ、三月足らずでほんとよくやってるわ。若旦那の名物うどんてのぼりがてきめんでさー」
「そんなに売れる?」
「売れる売れる。昨日だって今日だってお客の半分以上がうどんうどん。それでも蔵さん手を出さないから琢ちゃんヒーヒー」
「ふふふ、ちょっと可哀想かも」
「ほんとよねー。少しは手伝ってやりなよって言うんだけど、蔵さんは知らんぷり。琢ちゃん一人で必死でやってる」
「そっか。だけど、なおさら気が引けるな」
「とんでもないとんでもない、真央ちゃんしっかり育てないと。佐紀の心残りなんだから。琢ちゃんだってわかってるし、そこは夫婦ってもんじゃないか。景子さんできるから店のことは心配しなくていいからさ」

 麺打ち台で何やら言い合って笑う二人の姿を見ていて、あたりまえのことなのだが、夫への想いを失ったわけではないと考える祐紀子だった。
 そしてちょうどそんなとき窓が急に暗くなり、一瞬後に雨が来た。
 通り雨。斑の黒雲が真上にあって、はるか向こうの雲の切れた空が青い。
「ヘンな空」
 節香と前に出て空を見上げる。雨はしばらく続きそうだ。こうなるとお客の動きが変わる。多少ゆとりができそうだった。週末の店は雨だとまるで入らない。
「おいおい、よせやい、このまま降るんじゃねえだろうなぁ」
 蔵之介が出てきて節香の肩に手を置いた。一瞬のことだったが、祐紀子には、二人はもういい夫婦なんだと感じられて嬉しかった。

 雨は五時前にはあがっていて妙に明るい陽射しが注ぐ。いつの間にか開店を待つお客が四組並んでいた。
「ありがたいことだよな」
「うん、ほんとね。よかったね琢」
「うむ、祐紀ちゃんのおかげだ、ありがとう」
 夫の手が肩にのる。祐紀子の心は穏やかだった。
「さあ開けるかっ。待たせると申し訳ない」
 そして琢也は、厨房そばの六人席に座って休む皆に言う。

「開けるよっ!」
「おお、しょうがねえ、やるかーっ!」

 息子が言い、父親が応じるようだと節香は思った。

妻は幽霊(三八話)

三八話


 来た甲斐のある最高のゲームだったが、乱打戦は試合時間が長くなる。六時スタートで終わったのが十時前。それから野中はシャワーと着替え。クルマに乗り込んだときには十一時に近かった。
 ナイターの後はいつもそうだが、さすがにこの時刻から食事と言っても行き先は限られる。今日のゲームは長いと感じた祐紀子は、観戦しながら真央と二人で軽く食事を済ませていた。
 コンビニに寄ってちょっと買い、ともあれホテル。朝から遊びまくった真央はクタクタで助手席で寝てしまう。
 あのときのようにパパに抱かれて部屋に入り、一度起こされて風呂。パパと一緒の風呂で少し元気を取り戻すも、横になったとたん爆睡だった。

 高層ホテルのデラックスツイン。脱衣のないバスルームへ祐紀子はバスタオルを体に巻いて、替えの下着をハンドタオルに包んで持ち込んだ。野中はもちろん背を向けて紳士的。というか、向こうを向いて横になり、すっかり寝ついた娘の体中を撫でている。真央はぴくりとも動かない。
「出ますね」
「ええ、どうぞ」
 言わなくても気配でわかる。ドライヤーが止まりドアが開く。野中はバスルームから遠い側のベッドで、相変わらず背を向けて真央に添い寝をしていた。ホテルのパジャマは前ボタンのワンピースのようなもの。祐紀子には丈は充分だったが、長身の野中だとミニワンピのようになってしまう。
 可笑しいほど可愛いスタイルを横目にしながら脱いだ下着をちょっと包んでショルダーバッグの底に潜り込ませる。ドキドキしたし恥ずかしい。野中は気づいていながら向こうを向いて祐紀子の支度を待っていた。

「真央ちゃん、ぐっすり?」
 言いながらちょっと覗くと、小さな娘は横寝になって、モミジのような小さな両手でパパの胸ぐらをしっかりつかみ、寝息を立てて熟睡していた。
「ふふふ、可愛いなぁ。すがりついてる」
「ですね、女に胸ぐらつかまれてますよ、ふっふっふ。今日はどうもありがとう、嬉しいですよ」
 パパはもうたまらないのだろう。野中は分厚い胸で小さな娘を抱きくるみ、胸ぐらをつかむ手をそっと開いて体をずらした。
 そのときパジャマの裾が割れて黒いブリーフがチラリと見えた。
 祐紀子はハッとして目をそらしたが、その映像を焼き付けてしまっていた。パジャマからほとんど露わになる右脚の手術の痕。何度見てもすごい傷だ。

 ガラス越しに望む夜空には星々が煌めいて、眼下を見渡すと横浜ベイが一望できる。絵画のような景色。その窓際に置かれた白く丸いテーブルに、コンビニで買ったものを並べて軽く食事。握り飯とかサンドイッチとか、それにお茶やジュース。その程度のものだった。
「佐々木さん、やりましたね」
「ですね、今日は奴の手柄ですよ。まだちょっとレギュラーでは心もとないが使う度に活躍されては外せなくなる」
「そうやってスターになっていくんですよね」
「スターというか…まあそうなんでしょうが、チームの信頼ですよね。今日もひとつエラーした。打つ方は水物だが、ああゆうポカは汚点なんです。内野手はまず守備です。そこが信頼できてはじめて次がある。監督もこのところアイツに厳しくてね」
「期待するから?」
「そうです。若手は叱られなくなったらおしまいなんですよ」

 しばらく沈黙。
「ご飯、それで足ります?」
「充分です。夜は軽く。僕はいつもそうしています」
 私がいるからか、そう言えばお酒がないと祐紀子は思う。
「野中さんて飲まない方?」
「ほとんどやりませんね。選手と一緒だとどうしてもそっちになっちゃいますが、いまは昔とは違うんです。体調管理を怠るとアウトだ。ベテランは別として深酒する選手にろくなのはいませんから」
「以前からお飲みになられない?」
「佐紀子が嫌いでしたからね」
 そうだったと思い出す。琢也もほとんど飲まない人。

 そのとき真央が寝言のような、グズるような声を上げて寝返りをうち、ベッドの端へと転がった。落ちるかも。野中はサンドイッチをくわえたまま中腰になって両手を出して一歩を踏み出し、真央が落ちずにうつ伏せで止まると、祐紀子を振り向く。
「む。止まったか」
 眉を上げて祐紀子を振り向く野中。
「ふふふ、可笑しいな、いいパパだわ、たまらない」
「寝相が悪いのは遺伝ですから。ふっふっふ」
 それからまた座り、くわえていたサンドイッチを食べはじめる。野中はちょっと上目づかいに照れていた。
「寂しいんでしょ?」
 野中は少し眉を上げ、かすかなため息をつきながら言う。
「前にもこうして一緒に泊まりましたが、あずけたときは眠れませんでした。一軍だと時間が取れない。二軍に戻せと言ってるんですが今シーズンは動けそうにもありません。江戸屋さんにも、そういつもというわけにもいきませんし」
「あら、ウチならいいのに。いつでもどうぞ。オフにはずっとべったりでもいっこうに」

 野中はうなずきながら、しかしちょっとそっぽを向いて窓の外へと視線をなげた。
「真央は佐紀なんですよ」
「え…」
「だんだん似てくる」
「そうですね、母も言ってるんですよ、姉の小さかった頃に生き写しだって」
「やっぱり?」
「そうですよ。だからね野中さん」
「はい?」
「しばらく再婚なんてしちゃ嫌よ。私もう真央のこと姉の子だとは思えないの。可愛くてならない。主人のことより真央に気持ちがいってしまう。私そっくりなんだもん。再婚なさって真央を奪われたら私崩れちゃいそうで」
「祐紀ちゃん…ありがとう、そこまで真央のことを」

 と、そのときまた、今度は虚空をつかむように小さな手を上げて、真央はうわ言で言う。
「…パパぁ…ママぁ…」
 野中はサッと立ってベッドの下に膝をつき、娘の手をそっと握った。
「うんうん、パパはここだよ、安心してお休み」
 ベッドの端まで来ていた娘を真ん中に寝かせてやって、そのとき真央はパパのパジャマをしっかり握る。
 野中が泣いている。涙の浮かぶ顔を見たとき、祐紀子は心が掻き乱された。椅子を立ってそばへと歩む。
「私のこと姉だと信じて疑ってないんです」
「そうでしょうね、僕が見たって錯覚しちゃう」

「ママだけじゃダメみたい」 と、祐紀子はささやく。

「え?」
「真央ってね、普段パパのことは言わないようにしてるんですよ」
「あ、そうなんですか?」
「言うと寂しくなるでしょう。パパはどうしてここにいないのって思うでしょうし、幼いなりにそれを言うとみんなが困ると思ってる。じっと我慢してるんです」
「うん、そうですね、ぅん、可哀想に」
 見る間にパパは泣いてしまう。祐紀子も涙が流れてくる。
「再婚なんて考えたこともない。真央と佐紀は一緒になって生きているんです」
 感動する言葉だったが、このとき祐紀子は、なんて残酷なことを言ってしまったのかと後悔していた。逆だと思う。早く姉を忘れて真央ちゃんと幸せになってと言うべきだろう。
 しかしもう真央を手放すことはできそうにもなかった。

「泣かないで…ね…寂しいもんね…」
 泣かないでと言いながら自分だって涙を流し、祐紀子はそっと野中の肩に手をやった。フロアに膝をついているのに背丈がそれほど違わない。そんな強い男が、真央と姉を思って泣いてくれてる。
 祐紀子には、それだけで充分だった。
 真央はパパのぬくもりを感じて今度こそ眠ってしまった。天使のような寝顔だった。
「さあ立って。もう寝ちゃった、大丈夫だから」
 母親の視線で野中を見下ろしていた。
「ふふふ、うん、寝ちゃいましたね」
 なのに野中が立ち上がると、女の視線で見上げなければならなくなる。
「姉のこと、愛していらしたんですね」
「悪夢です。女神が消えてしまった」
 祐紀子はまっすぐ眸を見つめた。涙にキラキラ輝く勇者の眸。
「嬉しいわ。姉は私の半身だから、そこまで想ってくだされば私だって幸せなんです。真央のママでいたい。健気な子よ。今日だってディズニーランドで天使のように思えてしまって」
「佐紀の生まれ変わりなんですかね」
「そう思います。あなたが寂しくないように残していった娘でしょ」

「再婚しないで。しばらくは嫌」

 どうしてしまったのだろう。言ってはいけないと思いながら、言わずにはいられなかった。生き写しの娘を奪われたら生きていけない。母性が逆立ち、錯乱していたのかも知れなかった。
 祐紀子はそっと流れて野中の胸に頬をあずけた。
 腕を回してみても圧倒的なスポーツボディ。目眩がしそう。
 野中の手がためらうように祐紀子の体をつつみ込む。
「祐紀ちゃん」
「それイヤ、二人でいるとき佐紀って呼んで」
 野中は祐紀子の肩を押して抱擁を一度解き、真意を探るような男の視線をまともに浴びせた。

 ああ抱かれる…祐紀子の膝が震えていた。

「…佐紀…ああ佐紀、寂しいよ…」
 抱き寄せられたとき、祐紀子は涙を溜めて野中の眸を見上げ、そのまま静かに目を閉じた。
 佐紀子が夫のもとへと戻った瞬間。唇が重なった。

 祐紀子に多重する佐紀子の女心が衝き動かしていたのだろうか。

 ところが、それとちょうど同じ頃。
 江戸屋の二階の夫婦の部屋で、琢也は透き通る妻を抱いていた。
 佐紀子は、輪郭の白く輝く美しい裸身のまま現れて、そっと琢也に寄り添っている。撫でてやろうとすると手は幻影をすり抜けて自分を抱いているだけになる。
 なのに微妙な肌の感触を感じるし、見つめ合う男女の間合いがそこにはあった。
 琢也は祐紀子のことを言わなかったし、佐紀子は京子のことには触れようともしなかった。そこは大人同士。口数を少なくして穏やかな男女の夜をすごしていたい。

「真央ちゃん、いまごろぐっすりだろうな」
『さあね』
「え? 向こうへは行ってない?」
『おまえさんに抱かれてるじゃん、現にいま』
「そりゃそうだけど」
 透き通った佐紀子は、琢也の胸に頬をあずけてすがりつく。
『今夜は祐紀にまかせたの。野球は一緒に見てたけど、それからは幽体離脱。分身の術かしら? あたしずっと琢也のそばにいたんだよ』
「そう…でも佐紀ちゃんのこと知ってるの俺だけだから、なんだか祐紀ちゃんに悪いなって」
『どして?』
「二人の妻がいて、どっちも愛してる。浮気だもんなぁ」

 佐紀子はちょっと顔を上げて琢也の眸を覗くと、微笑んで、ふたたび胸に頬をあずけた。
『最高ね琢って。祐紀が聞いたら泣くでしょうね。真央のパパでもあるんだし、真央だっていつか琢を尊敬するわ。愛してるよ琢』
 琢也は、胸の上の佐紀子の頬を撫でようとしたのだが、やっぱり自分の胸を撫でてしまう。

「死ぬって、そういうことなのかなぁって思うんだ。生きてる間に心を育てて、そうすれば豊かな心でいつまでも見守っていられるからね」

『ねえ』
「うん?」
『キスしよ』
 透き通った妻は、静かに目を閉じて唇を求めていった。

妻は幽霊(三七話)

三七話


 木曜金曜と、開店と同時にご近所さんからはじまるいつもの江戸屋に戻っていた。しかし新築してからは一見客も確実に増えていて忙しい。景子が加わってくれて助かる。それまでは京子一人で休まれると困ったものだが、二人とも子供のいる主婦でもあり、これで交代で休んでもらえるようになる。
 とりわけ夜の営業だ。真央を保育園に迎えに行くのが四時前で、それからというもの、少しもじっとしていない真央を見ていなければならず、祐紀子は店に出られない。景子がいてくれるから店が回せる。景子は覚えも早く、もともと料理ができるから、ちょっと教えただけで天ぷらを揚げたり料理を盛り付けたりと厨房の仕事がこなせるようになる。京子もできる。スポーツばかりでろくに料理をしたことがなかった祐紀子がやるよりはかどるのだ。

 祐紀子はレジぐらいで、手が空くから真央の相手をしていられる。店の娘なのだからデンとしていてもいいようなものだが、真央がもう少し大きくなるまではしかたがない。
 九月の末は祝日が重なる。今年は土曜日からの五連休。そのへんを境に秋の観光シーズンに入っていくから、この分なら店はたいへんなことになる。開店から夜までぶっ通し。景子がいても人が足りなくなるだろう。江戸屋を継いだ若夫婦には嬉しい悲鳴なのだが、それだけに祐紀子は後ろ髪を引かれる思いがする。

 そして土曜日。
 夕べ真央は、明日のディズニーランドとパパの野球を楽しみにして、なかなか寝てくれないほど興奮していた。ママと遊べて大好きなパパにも会える。舞い上がって騒ぐ姿は可愛かったし、可哀想でならなかった。
 この子のためなら、いまは店がおろそかになってもしかたがない。
 琢也も節香も真央を可愛がり、背を押してくれるのだったが…祐紀子はやはり苦しかった。
 朝を揃って食べて、出る支度にかかる。日中暑くてもナイターまでを考えると真央に着せるものもいる。祐紀子は祐紀子で野中に会うのならそれなりのスタイルでなければならないだろう。チームスタッフに対しても家族として野中コーチに恥をかかせるわけにはいかなかったし、それ以上に姉には負けないと身構える妙な自意識が働いた。

 彼がそんなことで比べるような男でないとわかっていても、祐紀子はプライドにかけて遺影の妻には負けたくない。江戸屋の娘として琢也に恥をかかせることにもなる。
 しかしやはり…浮かれて着飾っているように思われないか…琢也や節香の視線が気になる。江戸屋にいることが苦しい。どうしてそんな思いをしなければならないのか。
 家を出たのは七時半すぎ。土曜日のディズニーランドは八時開園。これから行っても遅いぐらい。
 真央は青と赤のチェック柄のフレアスカート、プリントTシャツ、可愛いジャケットに、アニメのついたピンクのポシェット。長い髪をおさげにまとめ横浜シーシャインズのチームカラーの青い大きなリボンを飾っている。

 今日の祐紀子は濃い紺のパンツスタイル。園内で動きやすい。淡いブルーのブラウスから青い花柄のブラが透けている。それに、渋いワインのジャケットに同じようなワインカラーのパンプス。ヒップラインが強調される琢也の好きなスタイルだったが、江戸屋に同居するようになってからほとんど着たことがなかったものだ。

 手を引いて外に出て歩きはじめたとたん、すーっと心が軽くなる。夫の眸、家族の眸から解放された。
 一瞬にして祐紀子は野中の姿を思い浮かべる。ディズニーランドで真央と遊び、四時すぎには横浜スタジアム。そのとききっと彼は眸を潤ませるはず。離れて暮らして寂しくてたまらない。考えただけで胸がいっぱいになってしまう。
 今日明日と忙しい江戸屋のことも、夫のことさえ頭から消えていく。憑依している佐紀子の心が祐紀子の心に多重する。そうとは知らない祐紀子だから、私はどうしてしまったのかと戸惑うのだ。
 人生の中で姉を失った欠落を感じる。パズルのピースが抜け落ちてしまったように、修復できない穴を感じる。そしてその欠落を埋めてくれるのが真央なのだ。真央といると姉の意思を感じてならない。生前もっと大事にしておけばよかった。姉に会いたい。

 開店二十分前になって京子と景子が連れ立ってやって来た。二人とも普段着のミニスカート。着替えるときスカートの方が楽なのだろう。着替えは二階。階段を上がってすぐのところに店の備品を置く五畳ほどの部屋があり、ロッカーとまでは言えないが服を掛けるハンガースタンドがある。その裏側で着替えるわけだ。
 作務衣に着替えて景子が先に店へと降りた。京子は朝来ると必ず仏間を覗いて友だちの遺影に手を合わせる。着替えの部屋から階段を挟んだ向こうが六畳の仏間。
 そこに琢也が一人でいた。朝は線香は立てない。匂いが店に回ってしまう。蝋燭に火をつけて手を合わせ、火を消して下へと降りる。そのときちょうど蝋燭を消したところだったのだが、京子は、ちょっとうなだれるように肩を落とす微妙な雰囲気を感じていた。

「あら琢ちゃん」
「うん、おはよ」
「うん、おはよ。ユッキーはもう?」
「とっくさ。七時半すぎにね。それでも遅いぐらいだよ」
「今夜はナイターもなんでしょ?」
「そうそう、真央ちゃん舞い上がっちゃってさ」
「また、お泊り?」
 琢はちょっと笑ってうなずいて横をすり抜けようとしたのだが、琢也の孤独を見逃す京子ではなかった。
「琢ちゃん、えらいよ」
 両手をひろげて抱きすがり、眸を見つめ合い、京子の方から唇を重ねていく。
 琢也は一瞬、遺影を横目に戸惑ったが、ガツンと抱いて唇を合わせていた。

『けーっ』

 背筋がゾワっとする。

「この子いまに佐紀子そっくりになるよ」
「そうかしら?」
「あたしが言うんだから間違いないよ。あの子の小さかったときとおんなじ顔してる。元気なところもそっくりだわ」
 母の言葉を思い出す。姉は現世に取り残してしまった我が子に重なっているのかもしれないと祐紀子は思う。
 ディズニーランドで真央は光り輝いていた。他のどんな子よりも煌めく宝石になっている。すっかり親バカ。
 姉に死なれ、真央まで奪われたら私は悲しい。手放せない。野中に再婚なんてしてほしくない。想いがめぐり、日に日に不思議な激情に変化していくのを感じていた。

 そして、試合開始二時間前。横浜スタジアムの周囲は双方のチームのファンであふれかえっていた。今日は甲子園に本拠を置く伝統ある
チームとの一戦。大阪パンサーズ。相手チームのカラーは黄色。黄色黄色であふれかえっている。
 いま横浜シーシャインズはペナントレースの三位につけている。相手は二位。ここで三連勝すれば順位の逆転する勝負のゲーム。それだけにファンは熱くなり、スタジアムの周囲は青と黄色に見事に色分けされていた。
 一塁側ホームチーム関係者ゲート。真央はいつものようにはきはきと言う。ディズニーランドを走り回っていたのに、パパに会えるからハイテンション。可愛い笑顔を振りまいている。
 関係者控室に案内されて少し待った。大事なゲームの前だからか監督とのミーティングが続いているらしい。十五分ほども待たされた。

 ドアが開いてユニフォーム姿の野中が明るい笑顔を見せた。
「わぁぁパパぁーっ、来たよーっ!」
「おお真央ぉ! おまえ陽焼けして黒いなぁ!」
 駆け寄っていく幼子を、精悍なユニフォーム姿で膝をついて受け止めて、逞しく日焼けした父の頬を擦り寄せて、筋肉にみなぎる腕で抱き締める。恋人を抱く以上のやさしい抱擁。娘に頬にキスされて野球帽のツバに隠れて野中は眸を赤くする。
 祐紀子もウルウル。感動的な娘との再会だった。
 頭を撫でながら野中が立ち上がると、固いフロアでスパイクを履くから身長は百九十センチを超えている。何度見ても圧倒的なスポーツマン。小さな真央は大木のような腿にすがっているようになる。

「ディズニーランド、どうでした?」
「それが混んでて混んでて。真央ったらもう飛び跳ねてましたよ、嬉しくて嬉しくて」
「うんうん、ふっふっふ、やんちゃな娘ですからね。さあ、シートへ。これから試合前練習に入りますから見ててください。今日はサードスタメン佐々木です」
「あ、そうですの? スタメンに?」
「ここ三戦で三連続タイムリーですよ。奴一人で7打点だ。外せませんねもう」
「よかったですね」
「うむ、よかった、ようやくですよ。さあ行きましょう」
 逞しい手に背を押されたとき、一瞬ブラのラインに手がかかった。野中も意識したようで指先がすっと離れてラインの下を押す。

 ベンチ真上の中段だった。グランドまでは少し遠かったが、ベンチ前にいた佐々木が見つけて手を振った。祐紀子も笑って手を振った。異質な世界の人たちとの距離がない。選手の家族の特権のようなものだろう。
 守備に散った佐々木。そこらじゅうで矢のような白球が回り、そこらじゅうでグラブのいい音が反響した。
 パァァン! 
 内野を一周してキャッチャーに戻るまで目にも留まらぬ速さ。佐々木は躍動していた。一皮剥けたようだ。背番号27、泥のついていないユニフォームが凛々しかった。

 試合がはじまる。先攻はビジターチーム、大阪パンサーズ。しかしいきなり波乱が訪れた。
 先頭打者、初球ヒット。二番のバント処理で佐々木にミスが出て一塁暴投、ノーアウト二三塁のピンチとなる。三番バッターを三振に打ち取るも、敵の四番バッターはドミニカのキングコングのような奴。勝負しきれずスリーボール・ワンストライク。苦しい投球をレフトスタンド最上段へ運ばれた。初回にして三点のビハインド。
 その裏ゼロ。二回の表にまたしても相手にフォアボールがらみのスリベースヒットが出て0-5。一方的な展開になるかと思われた。
 その裏から双方ゼロが続いた四回の裏、ツーアウト一三塁のチャンスに、守備で足を引っ張ったバッター七番佐々木。ワンボール・ワンストライクからの三球目。アウトローのスライダー。
「佐々木さーん、打ってーっ!」
 必死の応援で沸き立つスタンドにいて、祐紀子までが叫んでいた。

 佐々木はすくった。外角のボールに対して踏み込んで、何が何でも捉えてやるというヒット狙いのコンパクトスイング。真芯で捉えたボールは、逆サイド、ライトスタンドぎりぎりに飛び込むスリーランホームラン。
 これで3-5。
「うわぁぁっ、やったー! 真央ちゃん、打ったよー!」
「うんっ打ったぁー! きゃははは!」
 スタンド総立ち。スタジアムが揺れるほどの歓声が波のようにうねっていた。ダイヤモンドを拳を突き上げて一周した佐々木は、ベンチ前で祐紀子に向かってガッツポーズ。
「カッコいいーっ、佐々木さーん! 最高よーっ!」
 胸が熱い。そのとき野中は三塁コーチャーズボックスにいて、サードベースを回る佐々木とハイタッチ。手を叩いて飛び上がっていた。
 すごい世界に野中はいる。祐紀子は胸が踊っていた。

 試合はそれから乱打戦。互いに先発投手が崩れてしまい、八回終了で10-11のすさまじいゲーム。
 しかし九回表、ツーアウトから、またしてもキングコングにソロアーチ。六甲颪の大合唱。10-12。
 そして九回裏、横浜シーシャインズ最後の攻撃。相手投手のフォアボール連発でワンアウト一二塁、そこでまたしてもバッター佐々木。スタジアムに悲鳴のような声が飛び交った。
 その初球。フォークボールがすっぽ抜けてキャッチャーのパスボール。ワンアウト二三塁の一打同点のビッグチャンス。佐々木はファールで粘り、ツーボール・ツーストライクからの八球目。
 三遊間真っ二つのゴロヒット! しかし当たりが良すぎて一人しか生還できない。と思われた次の瞬間、突っ込んできた相手レフトがボールを脚に当ててトンネル。ボールはあらぬ方へと転がって、カバーに入ったセンターまでもが抜かれてしまう。

 佐々木、激走。ファースト、セカンド、そしてサードに到達しかけたとき、野中コーチが腕を回してゴーのサイン。
 三塁までも蹴った佐々木はホームめがけて突っ込んだ。相手の中継セカンドからの返球。ホームクロスプレイ。スタジアムから一瞬声が消えた…。

「セーフ!」

「わぁぁ勝ったぁ! 勝ったよ真央ちゃん!」
「うんっ勝ったぁーっ! きゃははは! 勝ったぁぁーっ!」
 主審の手が横に開かれ、13-12。野球マンガのような劇的サヨナラ勝利。記録は相手のエラーだったのだが佐々木のランニングホームラン。チーム全員が飛び出して佐々木を囲み、ドリンクをぶっかけて、佐々木はボコボコに殴られ蹴られ。
 横須賀でのファームのゲームから佐々木を見てきた。祐紀子は涙があふれてならなかった。
 ヒーローインタビューは、この日三安打猛打賞、一人で六打点の佐々木。佐々木は泣いて語っていた。

 佐々木佐々木の大合唱。また一人スーパースターが生まれた瞬間に立ち会えた祐紀子だった。

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