月光裸身(一話)

 十月を秋風の心地いい季節だと思った自分が可笑しかった。考える
までもなく、そんなものは東京あたりの感覚であって亜熱帯に属する
この島では通用しない。とっくに陽の落ちた八時になっても磯の岩は
熱を持ち、どういうわけか風もなくなり、こうして座っているだけで
汗がじわじわ滲んでくる。

 かなり前から友だちと二人で計画した三泊四日のツアーだったが、
直前になってその友だちの子供が盲腸の手術で入院し、郁美はすっ
ぽかされるカタチになった。旅行なんてやめてしまってもよかったの
だけどキャンセル料だけタダ取りされるのも馬鹿馬鹿しいし、何より、
かねてからの予定であって家族がそのつもりでいてくれるのに、一家
公認の休暇をフイにするのも悔しかった。

 夫や子供のことよりも姑の目。世間で言うほど嫁姑の諍いはなか
ったけれど、姑は「嫁は女が家につくから嫁と言う」などということを
平気で言える古い人。とりわけ子供ができてからというものは、夫と
二人、一泊ぐらいはたまにはしたし、友人たちとの旅だってなかった
わけではないけれど、一人旅はしにくかった。

 それにしてもこの海の美しさはどうだ。欠け月が青白い光をなげか
けて、こんなに星があったのかと思うほど空一面に星が瞬く。
 そしてその光を波紋に揺らして映す海は夜になってもなお青く、そ
の所々に白く揺らぐ、それは海底の岩なのか、とにかく幻想的な美し
さにつつまれているのである。
 郁美は海に突き出した岩礁の先に座り、しばし俗世を忘れていた。

「あんたまさか、死ぬ気じゃねえだろうな」

 ふいに背後で声がした。振り向くより何より、そのあまりにぶしつ
けな物言いは失礼であり、せっかくのムードをぶち壊すものでしかな
かった。
 上半身タンクトップ・・というより白いランニングに短パンを穿い
た姿で、いかつい風貌の男が立っていた。頭は角刈り。肌は真っ黒に
日焼けして明らかに地元の漁師と思われた。歳は三十代の後半ぐら
いか、月明かりだけの薄闇の中、白目がギラギラ浮き立ってちょっと
怖い感じもした。
「とんでもありません、綺麗だなと思って眺めていただけです」
「ならいいけど」
 女一人の旅行者だと見切った上で、ちょっかいでもかけに来たので
はと考えて、郁美は立ち上がって少しは身構える気持ちを持った。し
かし男は、そんな女の気持ちなど察する気もないらしく、ぐいぐい歩
いて近づいてくる。

「そうおっしゃるからには、ここで自殺でもあったのかしら?」

 嫌味を含んだその言葉も、女としての本能的な怖さへの裏返しだっ
たのかも知れない。
 突端までずいずい寄って、郁美と並んだ男が海を見渡しながら言っ
た。
「姉貴が死んだ」
「え・・」
「ここでな」

 胸がちょっと痛くなり、郁美は男の横顔をうかがった。
「島の女は泳ぎは達者さ、けどあれだけ睡眠薬をあおっていたらしょ
うがねえ。去年のいまごろだったよ」
「そうでしたの」
「あんたを見てて姉貴を思い出しちまってな。それでつい。すまん」
 男の横顔がひどく辛そうに思えてしまった。郁美は話題を変えよう
として、ちょっと軽い声をつくって言った。

「それにしても綺麗な海ね」
「けッ・・何もわかっちゃいない、本土モンは嫌いだ」
 せっかくこちらが気を使っているのにと、その言い方にムッとした。
「ここの海はもう死んどる」
「どういうことよ?」
「見てみろよ」と言いながら、男は、ついいま白くて綺麗だと感じた
海の所々を指差していく。
「あんた東京か?」
「ええ」
「ふん、そんなら島のことなんざわからんはずだ。ほれ見てみろ、そ
こらに白くなったところがあるだろ、海の中によ」
「え、ええ?」
「珊瑚の死骸だ。白骨化した珊瑚だよ。土産物で売ってるだろ。この
海はしばらくダメだね。魚だってめっきり獲れなくなっちまった。あん
たが感傷にひたるのは勝手だか、くだらねえ」

「ともかく死ぬなよ」 
 ぶっきらぼうに言い残して男はさっさと帰って行った。

 宿はそこから遠くはなかった。ツアー客を受け入れる大きな旅館。
宿が大きいだけに、うろうろしていて人に遭うのが嫌で、戻った郁美
は部屋に独りこもっていた。テレビなんて見る気もしない。あの男の
ことがなぜか妙に気になった。気にはなったが旅の疲れと独りきりの
開放感とで横になったら眠くなって目が閉じる。

 翌日は生憎の雨だった。降りはそれほど強くはないが、出かける気
にはなれない。朝食はついている。軽くパンを一枚食べて、郁美はふ
たたび部屋に戻った。

 昼過ぎになって雨があがった。島はまだまだ夏らしく、雨があがった
とたん雲が消えて夏の太陽が顔を出す。ひどい暑さだ。この辺をぶ
らぶら歩いてみようと考えた。朝が軽かったせいか、おなかも空いた。
宿を出て、海沿いにどこをどう歩いたか気がつけば小さな食堂の前に
いた。時刻は一時を回っていた。
 端材とトタン板でできたようなバラックそのものの建て付けの悪い
店。一応サッシの窓だが、割れたガラスをガムテープでとめてある。
戦時中のバッテンテープの窓そっくりだ。
 中を覗くと四人掛けのテーブルが三つとカウンター五つの小さな店
だ。テーブルも椅子もガタつくし、床は剥き出しのコンクリートで真
っ黒に汚れている。壁には手書きのメニュー。汚い字。子供の頃に
田舎のラーメン屋へ行ったことを思い出す。
 店に客はいなかったし、店主もいない。

 メニューといっても数はそう多くない。ラーメンに丼物数種類、そ
れに定食が三種類。それしかなかった。マジックで書かれた下手な
字を見ているとカウンターの向こう側から声がした。しゃがみ込んで
何かしていたらしかった。

「おー、あんたか・・まだいたのか」

 夕べの男。相変わらずの白いランニングシャツ。角刈りにタオルを
ねじった鉢巻きをしていたが、こうして昼間会うと目の丸い可愛い感
じの面立ちだった。南方系というのだろうか、顔が角ばってごつく、
本土の男とは明らかに雰囲気が違う。
「夕べの罪滅ぼしだ。喰うものは任せとけ、俺の奢りだ。あんたゴー
ヤは喰えるか?」
「ええ、好きすですけど」
「そっか。そんじゃチャンプルーにしてやるわ。それと海蛇のスープ、
クラゲのてんぷら、ハブの刺身とか」
 郁美はちょっと怒ったような顔をした。
「はっはっは、冗談だ、なもん食えるかっ! あっはっはっ!」
 屈託なく笑う・・力のある笑顔だった。
「ここはあなたのお店なの?」
「漁師だけじゃ喰えねえからやってるだけさ。元はお袋の店だがな」

 しばらく待った。
 サービスのつもりなのか、これでもかと盛られたお盆を運び、テー
ブルに歩み寄ったとき、男は小声で言うのだった。
「口が悪くてごめんな。あんたのことが気に入った。今夜泊まるんな
ら、またあそこで会おうや。泊まるのか?」
「泊まりますけど、でも・・」
「おしっ。じゃ八時だ」
 こちらの返事も待たず豪快に笑い飛ばして行ってしまう。郁美は憎
めないものを感じていた。どちらかと言えば神経質な部類の技術屋
の夫とは何もかもが違い過ぎる。

 山ほど盛られたゴーヤチャンプルーに箸をつけた。
「美味しい!」
「美味いか? ほうか? はっはっは!」
「こんなに美味しいのに、なんでお客さんいないのかしら?」
「ほっとけ」

 そしてその夜・・。

 デートでもあるまいし、刻々と近づいてくるその時刻が気になって
ならず、郁美は、下着は化粧はと考えてしまう自分が可笑しかった。
 上はTシャツ。下は一度ミニを手にしたものの、わけのわからない
胸騒ぎを否定するつもりなのか、ジーンズを穿き込んで宿を出た。
 岩場が近づき歩いて行くと、あの突端のところに座る人影がぽつん
とあって、煙草の蛍がぽっと赤く灯って消えた。
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