月光裸身(二話)

「よお、遅かったな、来ないかと思ったぜ」
 そのあまりの短距離発想に郁美は思わず笑ってしまった。約束した
時刻にはまだ早い。
「あなたが早かっただけじゃない。まだ八時前よ」
「そか? はっはっは、まあいいや、行くか」
 まったく勝手にそんなことを言うと、男は立ち上がって歩き出そう
とした。
「行くって、どこへ?」
「あんた、この島好きか?」
「ええ好きよ、夢みたいな海だわ」
「そうか。だいたい観光客は同じことを言うもんさ。あんただけにと
っておきの場所を教えてやろうと思ってな。今夜も月が出てるし、う
ってつけの夜なんだ。ほれ行くぞ」

 またしても返事も待たず、さっさと先に行ってしまう。うってつけ
って、いったい何にうってつけ?
「ちょちょ・・あのね」
「あ?」
「そうやって自分一人で決めないでよ。あなたの名前も知らないんだ
からね。私だって女なのよ」
「そんなことか。俺は勝生(かつお)。いいから行くぞ、ついて来い
や」
 郁美は呆気にとられながらも勝生という男の後を追って歩いた。

 海に突き出た岩礁の付け根のあたりまで戻ると、勝生は、岩伝いに
左の方へと歩いて行った。岩がごつごつしている上に足場が狭く、左
側へ落ちれば数メートル下が海。向かって右側には雑草の群生が迫っ
て来ている。人一人歩くのがやっとの、とても道とは呼べない道。し
かも月明かりだけが頼りだからたまらない。
 数歩先を行きながら勝生は何やら向こう向きに喋っていたが、郁美
は足下を見ているだけで精一杯。上の空で返事をしながら歩いていた。

 そうして五分ほど行くと、道は、そのまま岩伝いに行く道と、左側
へ降りる道との二股に分かれていて、勝生は左側へ下る岩陰の暗い道
へと逸れて行く。初対面の男と行くには本能的に怖い道も、そのとき
の言い草が傑作で結局ついて行ってしまうのだった。
「こっから暗いぞ、襲われるかもしらん、俺に」
「さっきから暗いでしょーが。怖いんだからー、もう!」
 可笑しくなって笑いながらも郁美は男に対してぞんざいな言葉を使
いだした自分を意識した。警戒心がなくなった。そう思う。

 左に逸れて下りだすと道はすぐに行き止まり。そこに、左右と背後
に岩壁のそそり立つ、白い砂の浜があった。ほんの十歩で横切れるほ
ど小さなビーチ。その砂が月光に照らされて、まるで舞台劇のライト
の輪の中にいるような、青白い輪郭を浮かび上がらせている。
 勝生は、浜に降りるとすぐに砂の上にどっかと腰を降ろした。
「ここに座ってみ」
「うん」
 勝生と少し間を空けて砂に座り、見上げると、そそり立つ岩壁越し
に欠け月が煌いている。空には雲一片ないらしく星がばらまかれて瞬
いていた。
 やさしい波の音だけの静寂・・別世界そのものだった。
「綺麗ね」
「だろ? ここは島のもんしか知らん。世界一の浜だよ。ところであ
んたの名前は?」
「郁美よ」
「うん、いい名だ。イクイク、郁美、ふっふっふ」
「それやめて、よく言われる」
「だろうな。俺はな、子供の頃からここでこうして・・」と言いなが
ら、勝生は砂にごろりと横になった。両手を頭の下に仰向けに寝そべ
って、月をまっすぐ見上げている。
「子供の頃からここでこうして過ごしたもんさ。悩んだときも落ち込
んだときも。晩飯食ってふらっといなくなるもんだから、よく親に怒
られた」


「ここの景色をあんたに見せてやりたかった」
「どうして私なの? 若くて可愛い子がいっぱいいるのに?」
 月を見上げて座ったまま、郁美はさりげなく訊いた。
「さあね・・わからん」
「お姉さんに似てるから?」
「うん? いいや違うさ、全然違う。別れた女房ともまるっきし違う
しな」
「別れちゃったの?」
「八年経つかな。広島の女だった。あんたみたいに観光で島に来て島
に憧れ一緒になったが、ものの二年で逃げてった。何もない島だしよ、
漁師の暮らしもつまらんもんだし、臭いしな・・」
「ふうん・・じゃあ、それからずっと独り?」
「親父が死んでお袋も倒れちゃった。あの店もしばらく閉めたままだ
った。一昨年姉貴が帰ってくるっていうんで、またはじめた。姉貴は
博多でホステスやってた。まあ、いろいろとあってな、うん」
「でもね・・私は人妻なのよ」
「あー?」
 勝生は少し頭を上げて頓狂な声を出し、下からまじまじ見上げてい
た。

「あのな・・はっはっは、こりゃ可笑しい! あんたいくつだ? お
ばさんに興味はねえぜ」
「ンまっ!」
「がっはっはっ!」
 脚をじたばたさせて勝生は笑いころげた。
「三十八だ」
「・・二つ上かな。子供が中三よ」
「ぶはははッ! おばさんだー!」
「・・殴るぞ」

 ひとしきり笑ったところで、相変わらず月を見上げたまま、静かに
勝生が言った。
「あんた、いい女だ」
「ありがと」
「この島へは、また何で? 一人旅だろ?」
「聞きたい?」
「いいや。どうせあんたは観光だ、聞いたところでしょうがねえ」
「そうね」
 そこで勝生は両足を高く上げ、その反動で起き上がった。
「島の女なら素っ裸にして泳ぎたいところだが、ここは深い。溺れる
に決まってる」
「あら失礼ね、こう見えても水泳部だったのよ」
「ほう・・じゃ泳ぐか?」
「え?え?」
「よし、泳ぐぞ!」
「だって水着が・・」 
 それを言うのが先か脱ぐのが先か、勝生はぱっと立ち上がり、シャ
ツ、短パン、パンツの順にあっと言う間に全裸になった。海の仕事で
鍛えられた男の体。郁美はなぜか目を逸らせずに、砂の上に座ったま
まで勝生の引き締まった背中を見上げていた。

 郁美は静かに立ち上がり、全裸の男の後姿に寄り添った。
「これは夢よね」
「いい夢だ」
「そう?」
「うむ」
「夢ならいいわ・・一度だけ・・」

 郁美はジーンズだけを自分で脱いだ。

「脱がせて」
 そこで勝生ははじめて振り向き、郁美のTシャツをたくし上げて抜
き取って、ピンクのブラもショーツも、言葉使いとは裏腹なやさしさ
で脱がせていった。都会の中で陽射しを避けた真っ白な女体が、欠け
月の光に映えて美しかった。

 白砂の小さな浜は、急深となって黒い底へと落ち込んだ。勝生はそ
れでももしやと郁美を守るつもりでいたようだが、白い人魚の泳ぎに
は驚かされた。水面の下で白い女が妖しく蠢き、郁美は人魚になりき
った。
 少し沖へと並んで泳ぎ、それからは人魚というより二頭のイルカが
戯れ合うよう、抱き合って、離れ、息を合わせて深みに潜り、水の中
で絡み合い・・夜の海に溶ける男女の楽しいひとときだった。

 海から上がって白い砂に裸身を投げ出し、手をつないだままで月を
見上げ、荒い息の鎮まる少しの間、郁美は現実を考えていた。
 家のことにも夫のことにも不満と言えるほどのものはない。けれど
も、少しずつ何かが足りない。少しずつ何かが鬱積してきて、少しず
つ何かが冷めていく。贅沢と言えばそうだし、わがままと言うならそ
れもそうかも知れなかった。
 そういった何もかもを今夜の夢が吹き飛ばしてくれる気がした。

 郁美は自分でも信じられない性欲を感じていた。激しいものが衝き
上げる、そしてその余波のようなものが白い肌を這い伝い、首から下
へ、足先から上へと、女の中心にある淫花をめがけて押し寄せる感じ
だったのだろうか。

「抱いて」

 やさしく挑む男の愛撫がもどかしく、激しいキスを迎えに行く自分
が確かにいる。男の舌を絡め取り、食いちぎってしまいそうな無我夢
中の性欲に、郁美の艶かしい裸身は衝き動かされた。
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