傾いた振り子時計 響子編

 年に一度ここへ来て、この土地も変わったと思います。その年
その年の少しの変化が積み重なって、ふと気づけば時代の流れを
映している。
 自然のままのせせらぎだった川ですが、川べりの見慣れた家が
建て直されて新しくなり、木の橋がコンクリートに換えられて、
あの頃気のいいお婆ちゃんのやっていたお饅頭のお店もなくなっ
た。赤い帽子の子供がぽつんと立ってるような郵便ポストも消え
ている。あの頃なかった小川を隔てるガードレール。それさえも
錆びついた、そんな景色の中に私一人が立っていた。

 ここにはお墓があるだけです。私は四女で末っ子で三十三歳。
親たちは兄を頼っていなくなり、二人いる姉さんたちもてんでバ
ラバラ。それで私がお墓を守っていたわけで・・。
 父さんが死ぬ前にはもう一度ここで暮らしたいと言い張って、
それでお墓だけは移さなかった。
 かれこれもう十年かしら・・毎年一度夏に来てお墓参りをして
いたの。大好きだったお婆ちゃんに逢うために。

「響子か?」
 ふいに・・それもすぐ横で声がした。ドキッとして振り向くと、
ネズミ色の作業着姿のオジサンが突っ立っているのです。
「響子だろ?」
「え・・あ、はい?」
「おーおー、やっぱな」
「あの?」
「俺だ馬鹿」
 とそう言われ、ドス茶色に日焼けした岩みたいな顔を斜めに見
ていて・・。

「あなた・・べっちゃ?」
「ふふふ」
「わあっ、べっちゃだー!」
 こいつ、別本君。二つ上で幼なじみ。でも虐められた記憶しか
なかったのです。私は彼を向いて、じっくり顔を見てやって言っ
たのでした。
「あらあら・・くくく」
「何だ?」
「猿!」
「うるせえ」
 べっちゃってね、別ちゃんがいつの間にか、べっちゃになった、
あだ名みたいなものなのです。

 懐かしいわ。私は中学の時に村を出て街に住むおばさんの家で
育ちました。その方が学校のレベルが高くって塾にも近くて便利
だった。
 それ以来の再会だから・・十九年ぶりのべっちゃです。
 体ががっしり大きくて、ほんともう岩みたいな男の子。そんな
イメージそのままに、べっちゃはオヤジになっていた。

「ずっとここに?」
「出た」
「どこへ?」
「長野」
「戻った?」
「戻った」
「いつ?」
「おととし」
「結婚は?」
「うむ」
「お子さんは?」
「いる」
「どっち?」
「どっちも」

「あははっ!」
「何だよ?」

「変わらないね、このショート会話どうにかならない」
 昔からそうでした。ハタから見ていて喧嘩してるみたいな感じ
で・・変わってないと思います。
「それで奥様は長野の人?」
「上村の祥子、知ってるだろ」
「ええ・・ええ知ってる! あらそう、あの祥子ちゃんとべっち
ゃが?」
 上村祥子は私より一つ上で、同級生の姉でした。

 そんなことを話しながら、ふと、べっちゃの作業着の胸を見て。
「で? (有)別本岩魚って?」
「養殖」
「イワナの?」
「岩魚、山女、ニジマス」
「へええ? べっちゃの会社なんだ?」
「そだ」
「社長なんだね?」
「でもよ」
 べっちゃが指を二本立てたのです。
「社員二人?」
「一人」
「社員と二人?」
「そだ」
「奥様は子育てで忙しく?」
 と言ったとき、べっちゃの視線が私を逃げて木漏れ日に透き通
るせせらぎを見下ろしたのです。何かあると直感しました。

「ヤツは」
「え?」
「ダメさ」
「ダメって何が?」
「脳腫瘍」
「・・」
「それで、俺のお袋もいればヤツの親もいる、ここに戻ってきた。
頭がダメで、もう俺が誰だかわからない」
「治らないの?」
「もって一月。 おととし余命一年と言われたが頑張ってる」

 べっちゃが、振り切るように一息ついて言うのです。
「おまえは?」
「結婚?」
「おー?」
「した」
「ほ?」
「別れた」
「やっぱな」
「何だよ、それ」
「男の見る目は正しい」
「ンま!」
「がはははっ!」
「なんだそら、失礼しちゃう」
「ガキは?」
「いない。できる前に別れちゃった」
「そか」
「そ」
「いまは?」
「横浜。お墓参りに来てるだけ」
「婆ちゃん子だったもんな、おまえ。おまえの婆ちゃんによくお
菓子もらったよ」
「うん」
「そう言えば覚えてるか?」
「何を?」
「そこの稲荷の裏山で・・ほれ・・」
「あー!」
 このとき私・・頬がカーって火照ってしまって。
「四つだか五つだかのおまえを素っ裸にして泣かせたもんな。触
りまくりでよ」
「ヤだ・・思い出しちゃったじゃない」
 私ね・・ほんと言うとべっちゃのことが気になってて、裸にさ
れてドキドキしていた記憶があるのです。乱暴な子だったけれど、
なぜか憎めないべっちゃだった。
「あの響子が三十三か? 二つ下だろ?」
「うん」
「いい体になったもんだ、尻がいい」
「こ、こら・・ヤだ・・」
「がはははっ! ああ、ヤリてぇ! 脱げ!」
「ひっぱたくよ、もう! うふふっ!」


 そんなことがあったのです。それから少しお茶をしてそのとき
は別れて帰った。二月ほどが過ぎていき、その日私は仕事を終え
て夕暮れの港にいました。
 港の未来に閉じこめられた海の過去・・夕焼けの日本丸は綺麗
です。初秋の風が心地よかった。職場でセクハラされて気分が悪
く、三十三のOLでは煙たいのでしょうけれど・・。

「おー!」
「はい?」
「響子」
「べっちゃ! でも、どうして?」
「仕事だ。そこのホテルが魚を欲しがって交渉してきた」
「へええ、有名なんだね?」
「少しは知られて来たようだ」
 それにしても、腐った都会にスリップした、べっちゃの姿はセ
ンスなし・・うふふ。
「うわぁぁ」
「あ?」
「猿! あはははっ!」
「うるせえ」
「だって・・青い背広にピンクのシャツに黄色いネクタイ。信号
じゃんか。あははっ!」
 夏のすぐ後です、焦げたみたいに日焼けした、岩みたいな山猿
が、鮮やか三色・・。

 べっちゃね、そのときフッと笑って真顔になって帆船を見てい
るの。
 そして私はハッとして・・。

「それであの・・ねえ、べっちゃ」
「祥子か」
「うん?」
「逝った。一月前だ」
「・・」
「朝起きたら眠ってやがった」
「そう」
「静かな寝顔でな・・うん」
 わかるのです、涙を噛んでいるのがわかるのです。

 たまらないわ・・それで私、べっちゃの腕に腕を絡めて寄り
添って・・。

「気ぃ使うな」
「うん」
「抱くぞ」
「うん・・えーっ!」
「がはははっ!」
 べっちゃの手・・分厚くて大きな手が腰にまわされ、お尻を
ちょっと撫でられて。
「あのね、べっちゃ」
「お?」
「私あの頃、べっちゃのこと好きだったのかも」
「俺もだ」
「え?」
「好きだった。中学のとき、おまえがいなくなってよ・・」
「うん?」
「泣いたぜ」

「うははは! 似合わねー!」

 ああ私・・この人に抱かれるわ。岩みたいな山猿に倒されて、
脱がされて・・そして。
 こうで、ああで・・こんなこともされたりするんだわ。
 きゃー変態! ハァハァ・・。

「私ね」
「お?」
「岩魚って好きかも・・お魚って・・」
「塩焼きがうまいぜ」
「違うよ・・そうじゃなくて・・ばーか!」

 そしたら・・いきなり潰れるほど抱き締められて。
 苦しいじゃん怪力猿め・・。

 お墓参りに行ったあの日、大好きだった祖母が逢わせてくれ
たのだと思いました。
 べっちゃと同じ作業着を着てイケスに向かう私の姿を想像し
たわ。
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