林檎(一話)

海の見えるペンションでした。独り旅でここに来て、食堂の片隅に
置かれてあった古い絵本を手に取った・・・辛くなって閉じていた。
「お一人ですかな?」
「え・・・」
いいお歳のおじいちゃんです。宿のエプロンを着けてます。
「こちらの方・・・?」
「そうそう・・・ふふふ・・・娘夫婦がやってましてね、手伝っているん
です。ぼーっとしてると、ほら、ボケちゃうでしょ・・・ふふふっ」
シワでくちゃっとした顔の中で、丸い目が笑ってる。悪気のない
素敵な人だと感じます。
その人が、私のそばに座り込んで言うのです。

「その林檎、可哀想だと思われますか?」
「え?」
「その絵本、娘がまだ小さかった頃、私が与えたものなんですよ。
打ち身があって泥のついた林檎さん・・・きっと夢見て木になって、
でも大風で落ちてしまって泥だらけ・・・可哀想な林檎です」
「え、ええ・・・そうですね・・・ちょっと酷なお話です」
「うむ、まったく。ウチの娘も可哀想だと言いますが・・・しかしいま、
私はそうは思わない」
目を細め、窓越しの冬荒れの海を見渡しながら、おじいさんが静か
に言う。冬の海は嫌いです。景色が冷えて見えるから。
「それは? どうしてですの?」
「その林檎は弱すぎます。手に取られるのを待つだけで、生まれ
変わろうとしていない。泥は洗えば綺麗になるし、打ち身があって
も、蜜があって美味しいところがあるのなら、皮を剥いて裸になっ
て、自ら打ち身を削り取る努力がいる。そうすれば美味しく食べて
もらえるでしょう」

返す言葉がありません。こんな季節外れに女が独り。林檎の旅を
見透かされる気分です。
「でも・・・」
「なんです?」
「弱い林檎もいるのです・・・どうしようもなくて、もがくだけ・・・」
「なら・・・」
「はい?」
「腐っていくだけでしょう。懸命に裸になって・・・醜態を曝す勇気
を持って脱ぐことです。裸になって汚れたところを削ぎ落として
しまえばいい」
「・・・」
「あ・・・いかんいかん、また悪い癖が出た・・・ともかく、そんなもの
だと思うんですよ・・・子供の話は残酷でいかん・・・うん、いかん」

おじいさんが席を立ちかけたそのときに、娘さん・・・きっとそうです、
宿に来たとき、フロントにいた女性・・・歳は私と同じぐらいか・・・。
その人がエプロン姿でやってきて、おじいさんに言うのです。
「お父さん、また余計なこと言ったんじゃないでしょうね・・・もう、あっ
ち行っててよ・・・お客様なんですよ・・・」
と言って、私に目を流してずまなそうに頭を下げる。
おじいさんは連行されて・・・うふふ・・・それきり静かになりました。

冬の海は孤独です・・・誰にも振り向いてもらえずに荒れてるような
気がします。

夕食を終えて、部屋に戻ってしばらくしたとき、さっきの娘さんが
お茶を運んでくれたのです。
「先ほどはどうもすみません・・・お父さん、また林檎の話をしたそう
ですね、とっちめておきました。どうかお気を悪くなさらないでくださ
いませね。まったくしょうがない・・・」
「いいえ・・・うふふ、ちょっとズキッとしましたけれど・・・打ち身を
削り取る努力をしていない・・・それって私そのものだわって考えて
しまいました」
お茶を淹れてくれながら、娘さん・・・いいえ、この宿のママさんは
おっしゃいます。
「父は・・・」
「はい?」
「わかるのですよ・・・放っておけないタチなんです。こんなこと言っ
ていいのかどうなのか・・・」
「はい・・・どうぞ? おっしゃってくださいよ。お聞きしたいわ」

膝立ちでお茶を淹れ、私にすすめて、それからママさんが座ります。
余計なことを言ってしまったと・・・言葉に窮する感じがします。
「ほんとにどうぞ・・・聞きたいんです・・・」
「そうですか・・・ではあれですが・・・」
おじいさんには娘さんが二人・・・このママさんの上にお姉さんが
おいでなって・・・でもその人は・・・。
「・・・睡眠薬・・・そんな・・・」
「裏切られ・・・それからもいろいろあって・・・汚れきったと思ったの
でしょう・・・打ち身だらけの林檎になって・・・それで姉は・・・あ、
いえいえ、いまはもう元気なんですよ。郷里の山形で母と暮らして
いますけど」
笑顔を作ろうとされるママさんです・・・そんなことがあったから、
おじいさんは私に対して・・・このとき私・・・死んだ父を思い出して
いたのです。

「うふふ・・・私は・・・」
「はい?」
「私は自分で死ねるほど強くありません・・・それに・・・」
「・・・はい?」
「それに・・・」
「あ、お茶淹れましょうねっ・・・どうしましょう困ったわ、せっかくの
お泊まりですのに・・・ごめんなさい・・・」

「それにもう臆病になってしまって男の人を愛せない気がする・・・」

そんなことがあってからママさんと仲良くなって、パソコンでメール
を交わしたりしていたの・・・ペンションを訪ねたのが真冬の一月で、
それからもう三月が過ぎて、春らしくなっていた。
ママさんからぜひにと誘われて、私はまたペンションを訪ねたの
です。その日は私の誕生日で三十四歳・・・それをママさんは知っ
ていて・・・だから呼んでくれたのです。

ママさんもそうですし、やさしい感じの旦那様も・・・二人いる坊や
たち、それにおじいさんもとっても元気。おじいさん喜んで、私の
手を取り、笑ってくれた。
着いてすぐ気になったのは・・・あの可哀想な林檎の絵本。チェック
インして三時過ぎで、夕食が六時半から。内風呂で汗だけ流して浴
に着替え、ちゃんちゃんこを羽織った姿で・・・夕食にはまだ早い
六時前に食堂を覗いたのです。あの林檎の絵本が読みたくて。

そうしたら・・・。

あのときの大きな窓から海を眺め、一見して私より少し下ぐらいの男
の人が、絵本を手に取っていた。可哀想な林檎の絵本・・・絵本は
やっぱり古びていて・・・ジャージ姿の男性の大きな手にくるまれて
いたのです。
スポーツマンなのでしょう、日焼けしたその男性と、子供の絵本の
違和感に、何となく呆然と手許の絵本を見ていたの・・・そしたら
そんな私の気配を察して、その方が振り向かれ・・・。
けれどそのとき・・・いけない・・・見てはいけないと思いながら、なぜ
だか目がそらせず、その方を見つめてしまったの。

右後ろに立つ私から見て、顔の向こう側・・・顔の左半分にすごい
傷・・・頬骨のところから耳許・・・ほっぺ・・・顎の下まで、顔半分に
ひどい傷があるのです。
古い傷です。いまはもう、すっかりよくなっているのですが・・・。
そして・・・私の視線が呆然として・・・懸命に視線を下げて絵本を
見ようとしたことが伝わったのか・・・彼がね・・・これですかって感じ
で、手の中の絵本へ目を落とすのです。
「これ、ここの名物絵本なんですよ」
「そ・・・そうなんですか・・・」
「うん・・・僕はこれが好きでしてね、ここに来ると見ちゃうんです。
僕は海で来てますが・・・あ、潜りですよ・・・それで何度も来てますが、
この絵本お節介じいさんのセットが有名らしい・・・ふふふ・・・さあ、
どうぞ。いま終わったところです」

なるほどね・・・おじいさんたら、独り旅の女を見ると片っ端から・・・。
このペンションの人々に温もりを感じていた私です。

そしてそのとき、調理場からママさんが顔を出し、私たちを見つけて
笑顔で歩み寄って来られたのです。
「あらタカちゃん」
「よっ」
「そう言えば偶然だわ、こちらもタカちゃん・・・高田さんとおっしゃる
のよ」
それで・・・その男性と何となく微笑み合って・・・。
「高田結です」
「あ、はい・・・僕は谷本隆夫です、はじめまして」

それが・・・出逢いとなりました・・・。
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