林檎(二話)

谷本さんは三十七歳。年下に思えるほど若いのに・・・ちょっとびっ
くりした私。水中カメラマンで、日本の海を撮り歩いているそうです。
この宿とも長く、ここがまだ民宿で、おじいさんがやっていた頃から
のお客さんであるそうです・・・だから客扱いされてない・・・。
そんな家族のようなの雰囲気の中に、私は引き込まれていったの
でした。初対面の男性でも、こうなると急速に親しくなれます。

今日は平日・・・誕生日をお祝いしましょうって、ずっと前から誘い
があって、仕事を休んで来ています。春先でも海の季節にはまだ
早く、平日のペンションにお客さんは・・・年輩のご夫婦が一組だけ。
そんなことで、夕食は食堂で・・・その年輩のお二人まで巻き込んで、
一気に家族が増えた感じ・・・楽しい食事だったのです。

谷本さんね・・・あの傷・・・小笠原で潜ったときに鮫に襲われた傷だ
そうです・・・ずいぶん昔のことらしい・・・。
そうやって食事が済んで、全室禁煙のペンションで、海を見渡す
庭だけはタバコが吸えます。パーティみたいな席から、まるで無関
係の年輩のご夫婦が先に立たれ・・・次に谷本さん・・・私が二人の
坊やと遊び、ママと楽しくお喋りしていたので、遠慮されたのだと感じ
ていました。

「ああ楽しかったわぁ・・・来てよかった、あったかい人たちね・・・」
「うん、僕もずいぶん笑いました。久しぶりだな・・・笑ったの」
お庭の隅で・・・建物の軒下の灰皿のあるベンチに座る谷本さんに
歩み寄り、彼がベンチの端に動いてくれて、間を空けて端と端に
座ったのです。そろそろいい時刻の夜なのに、風がなくて暖かい。
月夜に煌めくさざ波鏡が綺麗です。
「今日もお仕事でこちらに?」
「あやや、僕は二泊目ですが、今回はオフです。機材を新しくしま
したのでテストを兼ねて潜りに来ました。高田さんは今夜だけ?」
「ええ、仕事を休んで来てますので。私OLです・・・と言っても古株
で腐ってますが・・・うふふっ!」
「失礼ですが・・・あの・・・」
「ええ独身です・・・ずっと独り・・・」
彼ね・・・私から目を外して、何も言わず海を見て・・・なんだかちょっ
と寂しそう・・・。

「谷本さんは? いらっしゃるんでしょう?」
「いえ・・・僕もです・・・ずいぶん前、若い頃にやってしまいましたら」
「やってしまった?」
「これです」
彼が顔の傷のことを言う・・・。
「大学を出たすぐ後のことでした。以来ずっと・・・」
「・・・そうですの」
「ええ」
そしたら彼、両手を上げて背伸びしながら、海を向いて笑うのです。
「ま、女の人はいいんです・・・僕は男が好きだから」
「え・・・」
「僕はね、さっきも言ったように、ここが民宿だった頃からの付き合い
なんですが、このことがあってから、さすがに休日は遠慮するように
なっていた」
「・・・どういうことですの?」
「ふふふ・・・お客さんに若い女性が多いでしょう・・・僕なんかがいた
ら気味悪がられる・・・醜いし・・・だからね・・・」

「・・・はい?」
「あの絵本が好きなんですよ・・・あれはずっと前からここにある」
「それで・・・あの・・・男の人を?」
「うん? ああ、ウソですウソです、あははっ!・・・女の人を好きにな
るのが怖いから、男が好きだと吹聴している・・・あははっ! でもね、
海はいいですよ、生き物たちの楽園です・・・海はいいです・・・うん」
谷本さんには悪いけど・・・そうかも知れないと思いました。ルックス
なんてと言いますが・・・あまりいい気分はしないものだと思うのです。
結婚を考える歳の女性なら、なおのこと・・・。
「打ち身を削れと言われてもね・・・はははっ」
「はい?」
「じいさんですよ、林檎の話」
「ああ・・・ええ、そうですね・・・それはそう・・・うふふ」
「整形すれば少しはよくなったのでしょうが・・・馬鹿馬鹿しくなりまし
た。これでも見られるようになったんですよ。外科的な復顔術でね。
その先は美容整形なんでしょうが・・・そんなことを気にする僕自身
に嫌気がさした・・・鮫は悪くないんです・・・うん」

チッチッチッ・・・音のない世界に響く時計の音が聞こえてきます。
この人に私は抱かれる・・・その直感・・・その緊張が秒読みの音と
なったのでしょう・・・。

「私ね・・・」
「うん?」
「二十代の・・・二十八のときに裏切られ・・・仲のよかった友達に彼
を奪われて・・・人を好きになるのが怖くなって・・・男の人もそうだし、
女友達だって・・・怖くなって・・・」
「・・・うん」
「死にたいって、その頃思って・・・でもウジウジしてただけ」
「・・・うん」
「でもそれは、いつか楽になったけど、今日私は三十四で・・・三十
を過ぎてしばらくして・・・ああ私って何のために生まれてきたのって
考えてしまいましてね・・・」
「・・・うん」
「それで、いまから三月ほど前、ふらりと旅に出て・・・あの絵本を見
てしまって・・・うふふ・・・おじいさんに言われちゃった・・・」
「・・・うん」
「打ち身があって、泥がついてる林檎さん・・・その林檎は弱すぎる
って・・・待ってるだけじゃだめだって・・・」
「・・・うん」

「やめましょう・・・こんな話・・・そろそろお部屋に戻りますね、お休み
なさい」
「・・・うん・・・お休みなさい・・・あの・・・」
「え?」
ずっと海を見ていたあの人が、そのとき私に振り向いて・・・そしたら
彼の目の中に・・・涙が揺れているのです・・・。
「あ、いやいや・・・うん・・・お休み! はははっ!」

そのときはそれで別れ・・・お部屋に戻ってからもテレビさえつける
気持ちになれなくて・・・ただぼんやりしていたの。
横になっても眠れない・・・そうだ、お風呂・・・ここは裏手に掛け流し
の温泉が造られて、終夜入れるはずだった・・・。
それで私は起き出して・・・浴衣で外に出たのです。星空でした。
月はなかった気がします。そのときのことは、よく覚えていないのです。

・・・だって。
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