快感小説

妻は幽霊(四話)

四話


 翌朝は六時頃からもう朝食を支度するご飯の匂いが二階へも回ってきていた。一日店を休むと仕込みが途絶えるからいつもより二時間も早く店が動き出す。開店は昼前の十一時、今日は平日だったが休日などは開店と同時に客がなだれこんでくることがある。浅草寺の界隈は特に観光の街。平日だからと安心できない。

 琢也は今日は遅番だった。夜の十時から翌朝六時までの終夜のシフト。コンビニは二十四時間やっているのがあたりまえだが、そこらじゅうにライバル店がひしめいていて夜中の落ち込みはどうにもならない。そうなると暇でならず、若いバイトに任せておくと店に友だちを呼んで遊びだしてしまうことがあり、夜中は琢也と、もう一人、年配のおじさんとで交代に受け持つこととなっていた。

 琢也にすれば、それも妻に対して申し訳ない。昼夜が逆転する日が多く、すれ違いになってしまう。起き出して着替えながら、夕べ話したことは夢ではなく、それでよかったんだと実感できた。
 妻を支えてやれる。もっと早く決めればよかったと考えていた。

「おはようございます」

「おいよっ、おはようさん」
 節香が応じた。元気がいい。時刻は七時。節香と祐紀子が厨房にいて、普段通りの店の一日がはじまっていた。蕎麦とうどんの茹で釜にも火が入り、そのほか朝食の支度もあって厨房には旨味の湯気が舞っている。
 そしてそのとき、裏口から蔵之介が入ってきた。身の丈百六十ちょっと。細身で角刈りの頭が真っ白な小男。しかしその眼光は凛々しくて身のこなしも素早く、浅草職人の心意気を感じさせる。

 ブルージーンにグレーのポロシャツという姿も、なぜか板について若々しい。戸口をくぐって手をちょっと上げて言う。
「ういっす!」
「おはようさん、ご飯できてるよ」
 祐紀子が応じた。
「そうかいそうかい、すまねえな」
 祐紀子の肩にちょっと手を置いて気づかいながら母親と一瞬交わした視線がやさしいと祐紀子は思った。やさしさの中に女を思いやる情愛が潜んでいると感じるのだ。
 蔵之介は厨房を素通りすると、板戸を閉めたままの店へと歩み、厨房に近い六人席に腰を降ろした。朝はここで顔を揃えて食べることになっている。琢也もシフトによって朝は一緒。徹夜のシフトのときは、この時刻は二階に上がって寝たままだ。

 母と娘が二人して食卓を整えて、今朝は琢也も入れて一家揃っての食卓。鮭の焼き魚に味噌汁、生卵に海苔という、あたりまえの献立だった。
 六人席の向こうに蔵之介と節香、こちらに祐紀子と琢也。どこにでもある家族の朝がそこにはあった。
 食べだしてすぐ琢也が何やら話したげに身を乗り出す。節香ももちろん感じていて、でも素知らぬ顔で食べていた。隣りにいる祐紀子も、ご飯茶碗を覗いたまま息を殺して言葉を待った。

「お義母さん、それに蔵さんも聞いてほしいんだ」
「おうよ? 何でぃ?」
 じろりと蔵之介。
「じつは蕎麦を覚えたいって思ってるんです。夕べ祐紀ちゃんとも話しましたが、この店を継ぎたいって…守っていきたいって…」
 節香は、夕べとはうって変わった厳しい眸で若い婿さんを見つめ、そんな女将としての節香の姿を蔵之介は黙って見守った。

 女将は言った。
「甘くないんだよ、半端な覚悟じゃできないんだよ、それでもいいんだね? 老舗の看板を背負うってことは、先々代、先代、それに蔵さんの想いを継ぐってことなんだ。あたしだって鬼になるよ、それでもいいんだね?」
 節香と蔵之介はちょっと目を合わせ、うつむいてしまった琢也を見守った。琢也は何度かうなずく素振りをして、それからキリと顔を上げた。
「お願いします蔵さん、それに女将さん。僕の歳からじゃ遅いのはわかってますが、その分必死に頑張りますから」

「おい、てめえ」 と、蔵之介は身を乗り出して強い眸で見つめた。
「職探しはどうしたい? 都合よくめっかんないから蕎麦にすっかじゃあるめえな? それとよ、佐紀坊がこんなことになっちまって、なもんで祐紀坊のためにってことでもねえだろうな? 蕎麦をナメるなよ。おいらにゃこれっきゃねえって見定めてやるんだろうな? 蕎麦に惚れ込んでやらねえと冗談じゃねえぜ」
 いきなり厳しいと祐紀子は思ったが、蔵之介の気持ちももちろんわかる。それだけに祐紀子はどちらの顔を見ることもできず、ご飯茶碗の白い飯を見つめていた。

 琢也は言う。
「佐紀ちゃんのことがきっかけでしたが、でもずっと考えてたことなんです。江戸屋をつぶせない。女将さんや祐紀ちゃんもそうですが、佐紀ちゃんや真央ちゃんにとってだって江戸屋は誇りだと思うんです。下働きからどんなことでもしますから蕎麦を教えてほしいんです」
 節香がちょっと怒ったようなフリでそっぽを向きながら涙を溜めていることは蔵之介にももちろん伝わった。
 蔵之介は黙って飯を口に入れながら、わずかにこくりとうなずいた。
「覚悟があるんならわかったぜ。んで? いつからよ?」
 と、蔵之介は言ったのだったが、それには節香が応えていた。

「それがね蔵さん、すぐってわけにはいかないのよ。コンビニの…ほれ上総屋(かずさや)の旦那にだって挨拶しなきゃならないし、先方にも都合ってもんがあるだろうしさ」
「うむ、まあな、筋を外しちゃいけねえや」
 上総屋という呉服屋の社長がコンビニを経営している。いまはもう歳でめっきり出歩かなくなっているが、かつては江戸屋の上客でもあった老爺である。
 節香はさらに言った。
「それもあって建て直そうと思ってるんだよ、ここもうボロだしさー」
「ええー、店をか?」
 蔵之介が目を丸くした。
「そうだよ。若夫婦がこれからやってく店が廃屋じゃしょうがないだろ。琢ちゃんがコンビニを辞められるようになる間に店を新しくしておきたいってね」
「それはいいけど銭はよ? かかるだろーよ?」
「かかるよ、そりゃ。けどそれは何とかするさ、少しなら蓄えもあるし。しばらくどっかアパートでも探してさ、引っ越さなきゃならなくなるけどね」

 建て直しのことをはじめて聞いた。琢也はちょっと祐紀子を見た。
 祐紀子は気配で察して、「夕べちょっとね」とだけ言った。
「おっ、いけねえいけねえ、こんな時間だ、はじめるぞー!」
 残った味噌汁を掻き込んで椅子を立つ蔵之介の姿が凛々しいと祐紀子は感じた。意気込みがいつもと違う。蔵之介は椅子を離れ際に節香の肩にそっと手を置いて言うのだった。
「これで大さんも浮かばれらぁな。おいらにとっても最後の弟子だ」
「うん、お願いね」
「おうよ、まかしとけ! さあやるぞー!」
 蔵之介が着替えに奥へと消えてから、琢也は節香に言った。
「それで女将さん」
「やだよー、女将さんなんてさー」
「いいえ、やると決めたからには江戸屋の女将さんです」
「そりゃぁそうだけど…で何さ?」
「はい、祐紀ちゃん連れて一度実家に帰ってこようって思ってます。向こうでも心配してるし、蕎麦職人になりたいってことも話してこようかと」

 節香は微笑んでうなずいた。
「そりゃもちろんさ、そうしな、とっとと行っておいで。店がちゃんとしたらご両親を呼んで安心させてあげないとね。ご両親は浅草は知ってるのかい?」
「それはまあ一度や二度は。浅草寺は知ってるって言ってましたから」
「そうかいそうかい。まあともかくだよ、琢ちゃん、ありがとね、あたしゃ嬉しいよ」
 節香は琢也の手をぎゅっと握って、今度ははっきり涙を浮かべた。

 蔵之介が職人姿で現れた。くすんだ紺色の作務衣の上下に料理人の白い和帽子。白木の高下駄。それに白い前掛けをキリリと締めている。江戸の粋。いかにも職人らしい見事な姿だ。
 厨房に降りた蔵之介に節香が言った。
「あたしらも着替えるからさ」
「おうよ! やることたぁ腐るほどあるぜぃ、あっはっは!」
 そして女二人が奥へと向かいかけ、なにげに祐紀子が蔵之介に言った。
「建て直すんならしばらく休みだから、蔵さんと母さん、二人でどっか温泉にでも行っておいでよ。たまにはのんびりしてくればいい」

 そのとき、節香と蔵之介はバツが悪そうに見つめ合い、二人揃って妙な笑顔を浮かべていた。琢也ももちろん気づいていて、妻と目を合わせて眉を上げた。

 母と娘が奥へと消えて、そのとき一緒に座を離れた琢也一人が二階へ上がった。節香も祐紀子も灰茶色の作務衣の上下に姉さんかぶり。それに節香は割烹着を着込み、若い祐紀子は前掛けをする。開店までは祐紀子も厨房を手伝って、それから店に出てお客を回す。開店少し前になって、昼時のためだけにもう一人パートの女性が来るのだったが、それまでに支度を整えておかなければならなかかった。

 二階に上がった琢也は、仏壇の前で蝋燭だけをつけて手を合わせた。古い家で線香の匂いが店に回ってしまう。縁起でもない。それで朝は線香には火をつけない。
 焦げ茶色の額縁の中にも妻がいる。見れば見るほど気色悪いほどうりふたつ。背景は横浜の港。オレンジ色のTシャツが日焼けした肌によく映えている。佐紀子は美人だ。

「佐紀ちゃん、ここ建て直すって。俺も頑張らないと。新しくなったら真央ちゃんも呼んであげたいし…うん、きっと」

 そのときだった。笑顔の遺影がウインクした。ウインクしたように思えた。
「うわわ…ええー、嘘だろ…夕べのことってマジかよ? はぁぁ」

 けれど佐紀子は出て来ない。琢也はまた手を合わせて頭を下げて仏壇の前を離れた。

 夫婦の部屋に戻って布団をあげる。窓を開け放って風を抜いたのだったが、そのときになって外が晴れ上がっていることに気がついた。
 朝から江戸屋のことで頭がいっぱい。いつもなら真っ先に気づくことに気がつかない。
「まずいぞこれは、晴れちゃったよ」
 コンビニの仕入れ。朝の分はすでに終わり、夜の便で冷やしものを増やしておいたほうがいい。琢也はすぐに下に降りた。
 そのとき厨房には、もうもうと湯気がこもり、三人揃って動き出していた。

「女将さん、僕ちょっとコンビニ見て来ます、仕入れしくじっちゃいましたよ」
 蔵之介が朱塗りのコネ鉢でうどんをコネながら笑った。
「晴れちまったんだろ?」
「そうなんですよ、曇天だって言ってたのに。夕方の仕入れを考えないと」
「はっはっは、そうだろうな。冷やしものが欠品だ」
「ええ、そうです」
 焦った素振りで裏口から出て行く琢也を見送って、蔵之介が誰とはなしに言った。

「まったくよ、真面目というのかバイトなのによくやってら。あの野郎なら大丈夫だろうぜ。おいらみてえな半端もんでもやってこれたんだ。はっはっは」
「ねえ蔵さん」
 と、祐紀子が言うと、うどんをコネながら蔵之介が顔だけ向けた。
「ここが新しくなったらアパート引き払っちゃえば。もったいないし、母さんのこと好きなんでしょ」
「む…うむむ…むむむ」
「あははは、困ってる困ってる、あははは」
 厨房に並んで仕込みをしながら、節香は可笑しくてならず、下を向いて笑いを噛み殺していた。蔵之介が焦っている雰囲気が面白くてたまらない。

 あの頃もそうだったと娘時代のことを思い出す。夫になった大子と蔵之介が私を取り合い、妙な雰囲気だったことを覚えている。
 蔵之介はチビでガリ。一方の大子は百七十五センチと、当時としては背も高く、それこそいなせな若者だった。娘たちが長身なのも夫の遺伝。もしも蔵之介に似ていたらチビだったと思うと可笑しくなって笑ってしまう。

 蕎麦屋の朝の麺打ちは、うどんからはじまる。小麦粉に塩水で水を回し、よくコネてから足踏みでコシを持たせ、さらに揉みあげてうどん玉をこしらえて、それから二時間ほど寝かさないと、いきなりのばして切るわけにはいかない。
 一方蕎麦は、水回しから、のばしに入って切るまでが一気に進む。うどんのほうが時間がかかるということだ。
 江戸屋の麺ツユは単なるカエシではなく秘伝の割下。土に埋めた大きなカメに割下ができていて、継ぎ足しながら熟成させる。
 カエシとは醤油に味醂や砂糖やと何種類もの調味料を合わせたもので、それに独自のダシを加えて割下ができあがる。いわば味の原液なのだが、その割下を薄め、さらにどんなダシ汁を合わせるかで、麺ツユから丼物のタレ、すき焼きのタレと千変万化、さまざまな料理の味が生まれていく。

 手打ち蕎麦の仕事には、麺とツユの両方にその店ならではの秘伝があって、ちょっと真似てできるものではないのである。

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