白き剣(四話)

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四話 朝の艶辰


 芸者衆十名を女将の美神が束ねる置屋の艶辰は、それまで墨田あたりの川から海までの一帯で漁をする網元の住まいであった。江戸が栄え花街としての色が濃くなって一帯に料理屋や出合茶屋などができていき、そのとき網元だった男が老いて家を手放す。かつての広大な敷地を三つに割って売り払った、そのうちのひとつであった。三代将軍家光の頃であったと言われている。

 そう古くもない艶辰の建物は平屋の棟が申し訳程度の中庭をはさむ、ちょうど『』このような造りとされていて、通り側を除く三方に目の高さよりも高い板塀が造られて目隠しとなっている。二人いる男芸者も女形であり、襦袢や湯文字など洗ったものを干すにせよ、建物の造りと板塀が人の目を遠ざけた。
 芸者衆は夜に生きる。朝は遅いほうであったが、冬のいま、それでも明けの六つ(六時半頃)、明るくなる頃には皆が起き出し、歳の若い虎介情介が皆の洗い物をする。女将の美神は男芸者二人に女として生きるよう躾けていた。虎介も情介も小柄で華奢。すらりと背の高い紅羽黒羽の姉妹と身の丈が変わらない。ゆえに女形がよく似合い、またどちらも気が弱くてやさしい若者。とりわけ芸者となって半年ほどの情介に対しては、華やかな芸者姿の裏にある湯文字までを洗わせて女の素性を教えていこうと考えている。

 そんな男芸者二人をよそに、同じく若い艶芸者の美介彩介恋介の三名に対しては、逆に強くなれと教えていた。朝起きると真っ先に匕首や剣、それに空手の稽古をさせるのだ。板塀の外に墨田の流れ(隅田川)。浅草川とも呼ばれた大河との間には草原の河川敷がひろがっていて、板塀の内側の稽古の気合いを吸い取ってくれている。美介彩介恋介ともに、忍びが鍛錬で用いる生成りの木綿の忍び装束。そして今朝、この三名に教えるは姉様芸者の鷹羽であった。
 鷹羽もまた生成りの忍び装束。鷹羽は二十七歳。中背の美しい女であったのだが、いまはもう崩壊して散り散りとなった伊賀のくノ一。上で二十二、下で十九という若い美介彩介恋介にとっては恐ろしく強い姉様だった。
「もっと腰を沈めるんだ。拳をやわらかく握り、当たるそのとき握り込む。突きは肩からだよ。肩が出て腰が入り、拳が伸びてく感じだね。いいね! わかったら左右で百本、はじめ!」
「はいっ!」
 三人の妹分は皆一様に厳しい眼差し。セイセイと気合いを吐いて打ち込むのだが、まだまだ甘い。三年ほど前までの艶辰には美介一人がいただけで、ましてや若い恋介など鍛錬しだして一年と経ってはいない。

「こら恋(れん)! 猫が引っ掻いてんじゃねえんだよ!」
「あぅっ!」
 鷹羽の左回し蹴りをまともに尻にくらって吹っ飛ぶ恋介。この三人は艶芸者であり、もっと厳しくしたいところだったが体に傷を残すわけにはいかなかった。
「なんだい、どいつもこいつも! こうだ見てな!」
 腿を割って腰を沈め、右足を一足分前に出して構える鷹羽。右左右と忍び装束の手首の生地がビシっと鳴るほどすさまじい打ち込み。若い三人が憧れるような目を向ける。
 くノ一は、生まれて物心つく頃から体中を痣だらけにされるほどの鍛錬を積んでいる。にわか鍛錬でできるものではない。技よりも強い心。そのための鍛錬だった。
 そんな様子を微笑んでしばらく見ていた黒羽。
「さて、あたしらも軽く」
「はい姉様」

 黒羽は、やはり生成りの木綿の単衣。結い上げる前の黒髪を後ろでまとめて垂らしている。化粧もしない。それでも黒羽は美しかった。
 黒羽は木刀。その黒羽に促されて左右に立つのは鶴羽と鷺羽。鶴羽鷺羽の二人も黒羽と同じく黒髪を垂らしてまとめ、生成りの木綿の単衣を着込む。
 黒羽は三十歳。対する鶴羽は一つ上の三十一、鷺羽は二つ下の二十八。この鶴羽鷺羽の二人は背格好が同じようなもの。黒羽より少し背が低く、しかしどちらも鍛えられた肢体を持つ。鶴羽は鷹羽同様に崩壊した甲賀のくノ一。鷺羽は甲斐一帯にいまも残る戸隠流のくノ一だった。二人ともにもちろん手練れ。鷹羽に劣らぬ技を使う。
 そんな二人を右と左の前に置き、木刀を中段に構える黒羽。剣を持つときの黒羽は、立ち姿から妖気のようなものさえ立ち昇る。そばで見ている若い三人にはそう見えたに違いなかった。
「打ち込んでおいで」
「はいっ!」
 鶴羽鷺羽ともに、一瞬の間を置いてほぼ同時に打ち込むのだが、黒羽の木刀がカンカンと乾いた音を響かせて左右の剣をこともなげに払い、二人は一歩後ろへ飛んでふたたび腰を沈めて身構える。
「セェェーイ」
「ハァァーイ」
 二人の気合いが重なって、木刀対木刀、すさまじい打ち合いになるのだったが、黒羽はその中にいて、どちらの剣をも蹴散らして、ごく軽い抜き胴を二人交互に浴びせていく。

「すごい・・」
 ぼーっと見ていた、まだ十九の恋介が思わず言った。
「参りました」
 鶴羽鷺羽のどちらもが片膝をついて頭を下げる。しかし黒羽はそんな二人の肩にそっと手を置き、言うのだった。
「剣ではね。けど忍びの技ではとても及ばぬ。おまえたちもいい太刀筋になってきたよ」
 鶴羽鷺羽の二人はちょっと笑ってこくりと首を折るのだった。
 それにしても黒羽の剣。それぞれ手練れのくノ一を相手に、まるで寄せ付けない強さ。それに気品。立ち姿の品格とでも言えばいいのか、これには鷹羽も含めたくノ一三人は憧れる。
 そしてさらにその場に姉の紅羽。歳こそ黒羽より二つ上だが剣では黒羽。同じような立ち姿で木刀を構えて向き合う姉妹を囲んで六人が見つめている。
「いくよ、セェェィヤァ!」
「なんの! ハァァーイ!」
 カンカン! カーン! カンカーン!
 腰を沈めて打ち合ううちに互いに単衣の裾が乱れて白い腿まで露わとなる。木刀も折れるのではと思うほどのすさまじい打ち合い。まるで互角。しかし黒羽の剣がやや上か。押し込まれて退いて行くのは紅羽のほう。
 この姉妹はいったい何者。太平の世にあって武家の女どもでもこれほどの使い手はまずいない。
「それまで!」
 黒羽が制して、二人ともに剣を降ろす。

 そして黒羽は、美介彩介恋介の若い三人に歩み寄り、それぞれに頬を撫でてやり、それぞれを抱いてやり、それぞれに口づけをしてやった。
「おまえたちの辛さはよくわかるよ、強くなって前を向いて」
「はい姉様、嬉しい」
 それぞれにうなずいて涙を溜める。美介は一度は遊郭へ売られた身。彩介と恋介はいずれも奉公先で嬲られ尽くして逃げてきた娘たち。恋介など体中に淫らな責めの痕があり、追っ手となったゴロツキどもを紅羽黒羽の姉妹の剣が蹴散らした。そのときのことをいまでもはっきり覚えていた。

 そうした女たちの洗い物を干しながら、稽古の様子を横目に見る男芸者の二人の肩に女将の美神はそっと手を置き、言うのだった。虎介情介ともに長い黒髪をまとめて垂らし、やはり生成りの木綿の単衣を着込んでいる。
 なのに美神一人が髪も結い上げ、薄く化粧も整えた出かける姿。落ち着いた江戸小紋の着物がよく似合い、そばにいるだけで二人の男竿は疼きだす。
「おまえたちはダメだよ、とことん弱くおなり。男は強くなろうとすると見えなくなるものがあるからね」
「はい庵主様」
 美神の両手がそれぞれ若い二人の股間に寄せられて、それぞれが男竿をふくらませる。
「ふふふ可愛い、もう大きくしてるんだから」
 虎介情介ともに白い頬が紅潮し、甘い息を漏らしていた。
 そんな二人の尻を叩いて歩み出た美神。振り向く皆を見渡して誰とはなしに言う。
「あたしゃ、ちょいと出てくるから。そうさねぇ夕刻前かな」
 戻るのは夕刻。皆がうなずき、美神は穏やかに微笑むと背を向けた。

 芸者は夜に花咲くもの。美神が出て、それから皆で朝餉を済ませ、今日は紅羽を置いて黒羽が出た。最前剣を交えなかった鷹羽を連れて。鷹羽もまたどこにでもいる町女の姿。お天道様のあるうちは芸者の身を忘れていたい。
 永代橋を渡り、なじみの小間物屋、なじみの茶屋で甘い物でもほおばって姉妹のように歩いている。夜の女は深川限り。その外では二人ともただの女でいたいと思う。
 墨田の流れに沿って歩き、ひとつ川上の両国橋。その広小路の表通りに出たときだった。
 黒羽は、待ちわびたような面色を一瞬見せたが、昨日の今日の話。
 葉山宗志郎。濃くかすれた青地の着物。黒鞘の大小を腰に差した凜々しい姿。袴などは穿いておらず、今日の登城はないようだった。
 芸者姿の黒羽ではない、くだけたそこらの女のいでたち。はたして気づいてくれるのだろうか・・と思うよりも先に、宗志郎は微笑んで、そっと歩み寄って来るのだった。

 微笑んでちょっと頭を下げたのだったが、そのとき黒羽は、どう呼んでくれるのだろうと考えた。
「これは黒・・いや・・ううむ」
「ふふふ」
 困ってる困ってる。昼日中の呼び名に困るやさしさが嬉しかった。
「あやめ殿、このようなところでお会いできようとは」
「あやめですの? このあたしが?」
「うむ、さすればお隣りは、かきつばた」
 これには鷹羽もくすりと笑う。
「ゆうべのお座敷で」と、黒羽は小声で鷹羽に告げた。
 黒羽が言った。
「末様こそ、なぜに?」
「さてね、浅草寺でも見てみようかと。あやめ殿とのことを願掛けに」
 そう言って黒目を回す仕草。粋な人だと鷹羽も思う。
「妹のような、かきつばたでございます」
 そう言って黒羽は鷹羽を引き合わせる。
「鷹羽と申します、どうぞご贔屓に」
「うむ、俺のほうこそ。されどあれですな」
 と宗志郎は黒羽を見つめる。
「はい?」
「皆々、名に羽がつくようで?」
 黒羽は笑ってうなずくと、末様と呼んだ宗志郎の耳許で言うのだった。
「女が空高く舞えるようにと女将さんが」
「ほう、これはまた粋な」

 親しげな二人の様子に、鷹羽は先に戻ると言ったのだったが、宗志郎が引き留めた。
「いやいや、それでは無粋というもの。空高く舞うものは舞ってこその命。見上げて想うぐらいがせいぜいの男ゆえ。ふっふっふ、茶でもいかがか?」
 鷹羽の面色が女の色に満ちていると、このとき黒羽は可笑しくなった。鷹羽は男を寄せ付けない。そんな女のはずなのに。

 この末様に、あたしは抱かれる。

 黒羽は燃えるような想いが衝き上げてくる女体の気配を感じていた。
 この出会いが置屋の艶辰を変えていこうとは、このとき二人は思ってもみなかった。