白き剣(終話)

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終話 女の貌


「して、その葛なる女の処遇はどのように?」
「落飾して仏門に。小石川にございます深宝寺、それに壷郷の屋敷の両方を用いて幸薄き娘らを見守るということで命ばかりはと」
「そうか、うむ、それでよかろう。江戸にそのような場があるならこれ幸いというもの。ご苦労であったな美神」
 落飾とは、女人がその黒髪を切り、あるいは剃り、俗世を離れて色を断つということである。

 江戸城からもそう遠くない番町の片隅にある、名もなき料理屋、山科の奥座敷。老いてなお矍鑠とした、老中、戸田忠真は、美しき美神と座をともにした。
 柳を葬ったところで事の子細は美神を通じて戸田に伝えられ、それ以降は戸田の手の者どもによって密かに処理された。
 残る相手は品川にある船問屋、船冨士の主、喜十(きとお)と、その兄であり駿府にある船冨士本店の主であるとともに武器を扱うときには武器商人として武尊と名乗る、兄の喜幸(きこう)。そして番頭の清吾(せいご)と言う男であったのだが、船冨士は紀州家御用ということで迂闊には動けない。
 戸田は言った。
「船冨士はつぶした。されどそれは禿どもの売り買いよる責めのみ。もっか取り調べておるが、そのほかご禁制の品々にも手を出しておったよ。兄とその手下どもは死罪、弟のほうは遠島と相成ろう。紀州尾張の両家に対しても、それとなくそれぞれの端役に匂わせておいた。いずれ両家より何人(なんびと)かの病死の届けが出されるであろうし、それはすでに尾張より壷郷なる者の病死が届けられておってな」
 美神はちょっと微笑み、うなずいた。
 武器の製造売買ともに、いっさいは闇の中。それが表沙汰となれば紀州尾張両家ともに一大事。船冨士はあくまで人身売買にかかわったということでのみ裁かれる。調べが進めば式根島に隠されるという武器一切も押収されるはずである。

 これで一件落着かと思えば、戸田は苦々しい面色で言うのだった。
「こたびのことにも顔を出したが、このところ阿片が出回っておるようでな、それにも頭を抱えておるのだ」
「左様でございますか。阿片となれば、またしても女たちが?」
「そういうことだな。世が弛みきっておる。吉宗様お世継ぎに際しての紀州尾張の騒動も、じつは皆が注視するところ。ましてや政(まつりごと)を改めようとすれば古き中でぬくぬくしておる者どもとすれば面白くはない。阿片は芥子(ケシ)。どこぞで育てられておるのじゃろうが、その相手が譜代であっても、いまは公儀としては手が出しづらい。諸藩ともに財政難。あえいでおるからのう」
 戸田は顔を上げて美神を見つめた。吉宗の世として落ち着くまでは危ういということだ。
「もっか探索させておるゆえ、事と次第によっては・・ふむ」
 ふむと、戸田はため息をついて眉を上げた。
 美神は言う。
「かしこまりましてございます。入り用とあらば我らはいつでも」
 戸田はこくりこくりとうなずいて、盃をちびりとやった。

 そして、「さて」と言って戸田は美しき美神の背後に控える若き武士へと目をなげた。
「そなたのことも聞いておるぞ。葉山の家からは勘当の身ゆえ、もはや一介の素浪人。それでよいのだな?」
 宗志郎は穏やかな面色でうなずいた。老中配下として動くからには一度は会わせておかなければならなかった。
 戸田は言う。
「そちのお父上とも話したが、たいそう喜んでおられたよ。あのはみ出し者がまさかの働きと申して恐縮しておった。艶辰の皆のこと、しかと頼みおくぞ」
 そのとき時刻は夕の七つ(五時頃)。外に出てみると冬の陽は少し長くなっていて、明るさが残っていた。
 
 美神と二人そぞろ歩き、宗志郎の小さな家。家に着く頃、江戸はすがすがしい闇につつまれていた。今宵は星々が美しく、雲のない空に右半月がくっきり浮き立つ。
 玄関へ入ってみると、今宵は鷹羽と、あのとき壷郷の屋敷で救った小娘が待っていた。禿髪は少し伸びたとは言え、まだ髷を結うには短い。年が明けて娘は十五。地下の檻にいたときはまだ十四だったというわけだ。
 名を律(りつ)と言う。童顔の残る愛らしい娘だったが、それだけに体のそこらじゅうに残る消えない責め痕が痛々しい。焼けた火箸の先を押しつけられた傷もあり鞭打ちで肌を裂かれた傷もある。
 救われてから一月ほどになるのだったが、律は心が壊されて、その歳なりの明るさが失せていた。
 家に入って、美神は律を一目見るなり、どうしたものかと言うようにちょっと眉を上げて鷹羽と見合う。今宵は黒羽紅羽の二人、それに鶴羽鷺羽の二人にも座敷がかかって仕事に出ていた。

 宗志郎の小さな家に美神が来ると、鷹羽は美神とともに艶辰へと帰っていく。残されたのは宗志郎と律。律は、あれからずっと艶辰に暮らしたが、芸者の華やかな姿は律にはむしろ辛いこと。連れ出してやり、宗志郎の家へと来るたびに、ここがいいと言い出した。女の尊厳のすべてを踏みにじられた娘。艶辰の皆の女らしさがかえって辛い。
 さらにまた律は柳のしたことも間近で見ていて、葛のことも受け入れない。律にはもう生き場がなかった。行き場ではなく生きていく場がないのである。
「宗志郎様」
「おぅ、どした?」
 ふと見ると、鷹羽が帰って男と二人きりになったからか、律は板床に額をこすって土下座をし、夕餉の支度ができていると告げる。男への恐怖がぬぐえないのか。怖くて怖くてならないのだろうし、下手にやさしくするとかえって律は受け入れない。宗志郎は頭をかかえた。女の中にはいられない男のそばが恐ろしいでは、どうにもならない。

 宗志郎は、足下に平伏す律を見下ろして言う。
「うむ、きっちりできたいい挨拶だ、おまえは可愛い娘だな」
「はい主様、ありがとうございます」
「では夕餉を頼む」
「はい主様!」
 違う、そうじゃないとは思うのだったが、そうして畜奴のごとく扱ってやると律は落ち着く。そうするのがあたりまえの律の生き様。であるなら、いままで通りに扱ってやろう。宗志郎は内心ため息をついていた。
 茶色に黄色の縞柄の着物。前掛けをさせ、肩より長く伸びはじめた黒髪を横にまとめる。それは愛らしい姿なのだが、これをどうやって女に戻してやれるのかと考える宗志郎。
 丸い卓袱台に夕餉を二人分ととのえさせて、宗志郎は、台の向こうではなく横に座れと律に言った。そしてすぐそばにきっちり正座をする律。
 白い飯に焼き海苔を巻き、ちょっと醤油をつけて、その箸先を律の口許へともっていく。律は目を丸くして箸先を見つめている。
「おまえに言っておきたいことがある。その前に喰え。おまえはよくやっている。これは褒美だ」
「はい主様、ありがとうございます」

 小さく口を開けてほおばる律。こういう与え方をすると嬉しそうにするのだからしかたがない。
「喰いながら聞くんだ」
 こくりと律はうなずいた。
「本来それは俺だけのことではないのだが、これからは俺のことだけ考えろ。どうすれば褒美がもらえるか、どうすれば叱られなくていいのか。鷹羽もそうだし、黒羽やほかの皆にもそうだが、言われたことには素直に従う。おまえの兄や姉だと思え。女将さんは母様よ。一切何も考えず、ひたすら素直に付き従う。よくできたときには褒美、だめなら仕置き。わかったな」
 一口の飯を噛んで飲み込んだ律は、はいと言ってうなずいたのだが、そのときの律の目がいつになく輝いている。あたしはそういう畜奴。体に教え込まれた律にとっては唯一の喜びなのだろうと宗志郎は思う。
 宗志郎は言った。
「よし、では俺に喰わせてくれ」
「えっえっ?」
「母が子にするように喰わせてくれと言っている。できなければ仕置きだぞ」
「は、はい主様」

 宗志郎がしたように白い飯を箸先にまとめ、そっと口に運ぶ律。半信半疑、おっかなびっくりといった面色だったのだが、夕餉が進むうちにやさしい眸に変わってくる。
 これだと思った。母の心を呼び覚ます。そうすればいつかきっと女の心を取り戻してくれるだろう。
「あの主様、汁は?」
「うむ?」
「汁は箸ではすくえません」
「では口移しだ。おまえが含んで俺に飲ませろ」
「ぁ、はい! ふふふ」
 笑った。笑顔など見せたことのなかった律が笑った。
 律は椀をとって一口をすすると、宗志郎の唇を見つめながら顔を寄せて唇を重ねてくる。
「うむ、美味いぞ」
「はい。でもそれは鷹羽の姉様がこしらえたもの」
「そうか。だったら次にはおまえがつくれ。まずかったら尻叩き。よいな?」
「はい主様、ふふふ、はい!」

 なぜ笑える? 哀しい。汁の塩味が涙の味のようにも思える宗志郎。

 口移しで汁をもらい、口移しで汁を与える。そうして夕餉をすませる頃には律に笑顔が戻っていた。
「次は風呂だな」
「はい主様」
「律よ」と言って、宗志郎は律の両肩を強くつかんだ。ビクリとする律だったが、あえて強い眸でにらんでやると、律はむしろ穏やかだった。
「壷郷の親爺と俺は想いは一緒でも考えが違う」
「はい」
「律は犬だとしよう。されど同じ犬でも可愛い犬とそうでない犬がいるものだ、わかるな?」
「はい」
「だったら可愛い犬になれ。置屋に飼われる律という犬は皆に可愛がられて生きていく。艶辰には美しい女たちがいるが、可愛い犬はおまえだけだぞ。人の女などは羨まず犬の牝を誇って生きろ」
「はい主様」
「うんうん、聞き分けのいい、いい子だ律は」
「はい! ふふふ嬉しいです主様」
 喜んで笑う律を見ていて、宗志郎の二つの眸が潤んでいた。

「それで風呂?」
「体を洗わせ、よくできた褒美に洗ってやってな」
「嬉しいんだろうね、それが」
 後日。宗志郎の小さな家ですべてを脱ぎ去った男と女が抱き合って話していた。末様は、あやめの白い背を撫で、そのあやめは心地よさに末様の胸に甘えつつ、そして言った。
「・・犬か」
 宗志郎は言う。
「まずはそこから」
「わかったよ、じゃあそうしようね、律は犬だ」
「犬はやがて化身する」
「そうだね、そうかも知れない」
 艶辰に戻された律は明るくなった。犬としての生き場を見つけた。素直によく働いて皆に可愛がられている。
 宗志郎は言った。
「打ちのめされる。次々に打ちのめされることを知る。女とは、いずれにしろ神がごとき・・」
 ちょっと笑った黒羽の唇が、強く勃つ末様の男竿にかぶさっていく。

 春、弥生(三月)。

 十八となったお光と十六となったお栗の初座敷は、鷺羽鶴羽鷹羽の座敷の座興として支度されたもの。その場には藤兵衛ほか木香屋の大工と職人衆が呼ばれいていて、月代を剃らずすっかり浪人髷となった宗志郎もともにした。
 姉様三人が横に並び、黒に桜の着物を着たお光、同じく黒に梅の着物を着たお栗が並んで座り、もっとも上座の藤兵衛に向かって三つ指をつく。
 鶴羽が言った。
「こなた両名、わたくしどもの妹分なれど今宵が初お目見えにて、まだ名がありませぬ。末永くご贔屓にという意味も込めまして、どうぞよい名を皆様にと女将に申しつけられておりますれば」
「ほほう、我らが名を? それはまたたいへんなお役目だ。下手をつけると呪い殺されてしまうゆえな。はっはっは」
 藤兵衛が笑うと集まった七名のほどの者たち、そして宗志郎がくすりと笑う。
 藤兵衛は大工ならがも粋人。宗志郎は横目に見て、それからお光お栗にちょっと笑った。藤兵衛は腕を組んでちょっと唸って考えて、畳に両手をついたまま顔を上げる二人の妹分に向かって言う。

「艶辰は羽がつけば姉様格、介がつけば愛らしい。とするならば・・」
 お光もお栗も眸が輝き、それは美しい娘芸者。藤兵衛は言う。
「お光は光ぞ、光は空に輝く陽であって、ゆえに陽介(ひのすけ)などはどうかと思う。お栗は栗、栗は森になるものということで、森介(しんのすけ)ではどうか」
 妹芸者二人は微笑んで互いを見つめ、鷺羽鶴羽鷹羽の三人も穏やかに笑っている。
 鶴羽が言った。
「陽介に森介、それぞれにふさわしく、よき名かと存じます。これ陽介に森介、お客様にお礼のほどを」
「はい姉様」 とお光が応じ、お栗も嬉しそう。
 お光が言った。
「わたくし光は今宵をもちまして陽介にございます。心の限り務めますれば、どうか皆様ご贔屓に」
 お栗が言った。
「さすればわたくし栗は森介とお名をいただき、いっそう芸に励みますので皆様どうかご贔屓に」
 二人揃って頭を下げると皆が手を叩いて声を上げた。

 ちょうどその頃、置屋の艶辰。春の陽気に誘われてということなのか今宵は皆が出払って艶辰には美神と律の二人だけ。
「ここでこうして糸に玉をこしらえて一針入れて糸を切る。その先やってごらん」
「あ、はい」
 律は針仕事が下手だった。縫い目が右に左によたってしまう。
「もう不器用だね、おまえって子は」
 美神は笑って縫い手を代わった。
 艶辰で皆が集まる大部屋と言えば、四角い火鉢のある女将の部屋。春とはいっても夜には冷えて火鉢に炭が燃えている。
 風呂の掃除をしていた律の着物にほころびを見つけ、部屋へ呼んで縫い方を教えている。律は十三で売られた娘。禿髪は肩を越してだいぶ伸びたが、まだ結えるほどの長さはなかった。それこそ犬の尻尾のように頭の後ろでまとめただけ。普段着の着物だったが、それは虎介のお下がりで赤い小花柄の愛らしいもの。その袖が、何かに引っかけたようでほころんでいたのだった。

 律は薄い襦袢だけ。正座をすると腿が露わ。しかしそこにも鞭裂けの傷がある。美神が運針、律は顔を寄せて覗き込む。
「ほらこうして。次からは自分で縫うんだよ」
「はい、すみません、ありがとうございました」
 美神は微笑み、できなくて小さくなる律を横目にちょっと睨む。
「あたしにとっちゃ皆が娘。可愛くてならないね。おまえもだよ律。おまえが皆に可愛がられる姿を見ると嬉しくて涙が出そうさ」
「はい」
「けどおまえという子はどうやら犬。ふふふ、それでもいいんだ、犬でもいいから駆け回っていてほしい」
「はい、ありがとうございます女将様」
 美神は、まさに犬のようにまっすぐ見つめる律の眸を見て小首を傾げた。
「まあいい。風呂でも沸かしな、ともに入ろう。着物ひとつまともに縫えない罰だからね」

 大きな湯船に二人で浸かり、美神はその白く美しい乳房に律を抱いて乳首を吸わせる。
「はぁぁぁ心地いいよ律。何の因果で犬を産んでしまったのか、ふふふ、まったく一生の不覚だよ」
 乳房の裏から聞こえるような美神の声を、律は眸を閉じて聞いていた。
 湯の中で美神の手が律のふくらむ乳を揉み、そうしながら頭ごと抱き締めて、
美神は言った。
「おまえのような娘を減らせるならと願ってあたしらは動いている」
 乳首に吸い付き、口の中で舐めながら、律はこくりとうなずいた。
「そのあたしらを癒やすのがおまえなのさ。己のためじゃなく、あたしらのために生きてくれる犬がいるなら、それは艶辰の誇り。おまえの一念を皆が受け取り日々を過ごす。受け取った一念は皆の一念を掻き立てて、人数分の想いをおまえは受け取る。犬としてならおまえも胸を張れるだろ?」
 律はこくりと今度は大きくうなずいた。

「人の世はもう嫌・・考えない犬でいたい」

 美神はうなずき、幼さの残る律の裸身を抱きくるむ。そのときの律の顔。穏やかに微笑んでいて、与えられる抱擁を愉しんでいるようにも思えてしまう。

 この艶辰で誰しも持てない女の貌(かお)だと美神は感じた。



白き剣 完