快感小説

色無地

「ちょっと香苗さん、萩の間のお座布、また傾がっててよ! お座布
積むときは角々を合わせてきっちりって言ったでしょ! そういうと
ころの乱れが評判につながるの。何度言ったらわかるのかしら!」
「申し訳ございません、以後きっと、ちゃんとしますので」
「ほんとよ! お願いしますね! いちいちお尻拭いてまわってるよ
うじゃたまったものじゃありませんから! 仲居は見た目だけよくて
もダメなのよ! 美人だからってお高くとまってるんじゃありません
こと!」

 俺は身震いするものを感じていた。そのとき風呂上がりで浴衣姿。
たまたまそこを通りがかった。仲居同士の立ち話。心ならずも物陰に
隠れているしかなくなった。
 目下の不始末をただ注意したというだけでなく、その言いようには
陰険な響きがあり、虐められていると感じてしまった。仲居は女同士。
どろどろとした感情もあるのだろう。

 この旅館の仲居には二通りの装いがあり、いまの様子からも、どち
らが格上なのかははっきりしている。若草色の色無地を着た女性と藤
色の色無地の女性。美しく楚々としたその人は若草色。叱りつけてい
た方が藤色の着物。そう思って見渡してみると、かならずしも年嵩と
いうことでなく、若草色の着物は多く、藤色が少ない。
 それはともかく、俺は胸が痛かった。この俺が彼女を見間違えるは
ずがない。
 見つけた!
 こんなところにいたなんて…横顔を一目見て、だから俺は隠れてい
るしかなくなった。

 北陸。金沢で生まれ育った俺が就職したのは十年も前になる。三十
二になったいま昇進の話があり、そのため東京本社に半年間の研修に
送り込まれていたのだった。
 それが二月ほど前のこと。支社と本社の温度差にも慣れ、ひさびさ
の三連休を手足をのばして過ごしたく温泉を思いついた。同僚が一緒
だと仕事の延長であり、といって上京から二月足らずでは友だちもい
なかった。
 万座。一人旅は気ままだが、いま思うと、なぜこの地のこの宿を選
んだのか…温泉地などいくらでもあるというのに。
 そしてそこで彼女に再会。もはや縁だとしか思えなかった。

 あれから二年…早いものだ。

 二年前、俺は恋人をガンでなくした。香澄。進行の早い肺ガンで、
見つけたときには手遅れだった。わずか十日で逝ってしまった。
 香澄と出会ったのは彼女がまだ二十歳の頃。そのとき俺は二十八で、
八つ下の恋人だった。俺はすでにいまの会社に勤めていて、その夏の
海で出会った。
 一目惚れ。美人というより可愛い子で、二年ほど付き合って彼女の
卒業を待って結婚するつもりでいた。
 もうすぐ…あと少しで一緒になれる。

 運命は残酷だったね。

 それから二年が過ぎ、俺はいまだ独身だったが、俺の中でアイツは
死んではいなかった。
「こらこらエッチ! おっぱいタッチ一回十円! あはははっ!」
 明るい声がいまでも聞こえてくるようだ。
 愛していた。いまだ途切れることなく愛してきていた。

「末期ガン…そんな…」
 あのときのことが歳月など存在しないように瞼に浮かぶ。
 香澄どうしてだ? 悲しいよ香澄…嘘だ…嘘だろ?

 夏に知り合い、秋口になる頃に、彼女の家に呼ばれたんだ。お父さ
んは長く海外赴任。それでアイツ、実質母子家庭でお母さんと二人で
暮らしていた。
「ママ、茂樹さんよ、いいオトコでしょ!」
「しっ茂樹です…はじめまして。あ、あ、あ…ええー?」
「あははは、びっくりしてるびっくりしてる、あはははっ! ママは
ね、十八で私を産んだのよ。だから娘二十歳でママは三十八。姉妹み
たいに見えるでしょ」

 瓜ふたつ。ぞっとするほどそっくりだった。うまく言えないが、双
子のお姉さんのようなお母さん。
「はじめまして、母の香苗です。私の名から一字をとってつけたのよ、
娘の名。可愛い子でしょう」
「は、はい!」
「あははは、カチンカチンになってるー、アソコみたいー。あははは
っ!」
「これ香澄、何ですか女の子が! あぁんもう、何てこと言うのよ!
うぷぷ、あはははっ!」

 そのお母さんが失踪した。父親のいない間の子供の死の責任は母に
ある。なぜもっと早く気づいてやれなかったのか…苦しみもがいて家
を出た人だった。
 香澄の死から二年。お母さんは四十二歳になるはずだったが、まる
で何も変わっていない。長かった髪を切り、心なしかやつれたように
も見えてしまうが、しかしやはり若く美しく…俺にとっては、愛した
香澄がもう一人いるようなものだった。

 この宿を選んだのも香澄の意思に違いない。ママを助けてあげて。
そんな香澄の声が聞こえたような気がする。
 あれから二年も過ぎて、にもかかわらず座布団を積む程度の初歩的
なところで叱られているということは、流れ流れてこの地へやってき
たのかも知れなかった。
 香苗さんは失踪し、その後、家がどうなったのか、それからのこと
はわからなかった。離婚したのか…きっとそうだと思うのだが、苦労
されていることは想像できた。嫁ぎ先を飛び出して、おそらく実家に
も戻れずに…そう思うと俺は震える。身震いする。

 しかし…ここで下手に声をかければ彼女は去ろうとするだろう。香
澄を愛し、その母に対して泣いてまで嫁さんにしたいと言った。
 新妻となるはずだった恋人を奪った、どうしようもない母親だと考
えるに違いない。

 どうしよう…どうすればいい。
 香澄、おまえだよな? おまえがここへ連れて来たんだ。

「ママを助けて。ママは悪くない、お願い助けてあげて」

 聞こえたよ…ああ確かに聞こえたぜ!
 香澄はいまでも俺から離れずにいてくれる。 

 それで俺は、ともかく部屋に戻って着替え、宿の通用口を見渡せる
ところにクルマをまわし、時間をやり過ごしていたのだった。
 この旅館は山峡にあるにしては大きな宿だが、高級なところではな
い。それとなく探ってみたところ、大勢いる仲居の中には過去を背負
って流れてくる女もいて…寮に住む者もいればアパートを借りる者も
いるらしい…それより深いところは訊けなかった。

 八時を過ぎて通用口に四人の女が現れた。仲居の着物の上に一枚羽
織った姿。若草色が三人と藤色が一人。
 通用口を出たところで、また何やらいちゃもんをつけられているよ
うで、若草色の三人がしきりに頭を下げて謝っている。
 クルマを降りて尾けてみる。藤色の一人はすぐに消えていなくなり、
若草色の三人のうちの二人は、少し歩いたところの古くて大きな家に
入って行く。そこは寮だと考えた。そして残った一人が、さらにその
先へと歩いて行く。
 香苗さんはアパート暮らしをしているようだ。夜の山風が寂しげに
流れていた。

 五分ほど尾けみて、そしたらそこに古くて汚いアパートがあったん
だ。木造モルタル二階建ての八軒長屋。建物の大きさから察するに、
よくて六畳、狭ければ四畳半かと思われた。
 彼女は二階。錆びついた鉄の階段を上がって行って…俺はそっと後
を追い…階段を上がった角から二軒目のドア…茶色のドアの化粧板が
雨風で板がうねってひどいものだ。いまどき学生でも敬遠するひどい
アパート。ガチャガチャ鍵を回してやっと開く…そんな暮らしだった
んだ。

 そしてドアが開いたとき、俺は意を決して立ち上がり、歩み寄った。

「香苗さん」
「ぁ…」
「僕です、茂樹です」

 このとき、なぜ香苗さんと呼んでしまったのか…直前までお母さん
としか俺の中に言葉はなかった。

「茂樹さん…どうしてここがわかったの?」
「偶然です、偶然ですが、アイツの声がしたんです」
「帰って…帰ってください、お願いだからそっとしといて」
「いいえ、それじゃ香澄に顔向けできない、失礼しますよ!」
「あっ! 茂樹さんダメ!」
 白い細腕をつかんで俺が先に入り込み、部屋の中に引きずり込んだ。
そのときふと手先を見ると、白くて小さな手ががさがさに荒れていた。
 俺は…なぜかしら腹が立ってしかたがなかった。あの素敵なお母さ
んが何でこんな暮らしをしなければならないのか…そんなような、わ
けのわからない怒りだった。

 狭い部屋だ。六畳一間に風呂などはなく、トイレと半間幅の申し訳
程度のキッチンがついてるだけ。風呂は帰り際に宿で済ませてしまう
のだろう。
 粗末で寂しい暮らしだったが、そこには切ないまでの女の匂いが満
ちていた。香苗さんが20Wダブルの古い蛍光灯の紐を引いて明かりを
つけて、そしたら壁際に置かれた小さな化粧台の上に、赤くて可愛い
フォトスタンドにおさまった香澄が笑っていたんだね。

「やっと来たねー、この愚図ぅ! あはははっ!」 

 ああ声がする。ここにも香澄はいると実感できた。
 香苗さんは押し黙り、赤茶けた畳の上に座布団をすすめると、湯を
沸かしてお茶を支度してくれた。

「香澄が夢枕に立ったんです」
「…」
「それで何となくこの宿を予約して…二泊で…」
「引き会わせてくれたのかしらね、あの子が」
「そうですよ。これからは僕が守ります、守ってみせます」
「茂樹さん、あなた何を言ってるの。私なんて…私なんて、あの子を
殺し…」
 言いかけた言葉を叩きつぶしてやった。言わせてはいけない言葉な
んだ。
「それは違う! 香苗さんの中にはアイツがいる! 瓜二つだし…そ
れに香苗さんと僕は一回りしか違わない。僕ももう子供じゃありませ
ん。悲しいですよ香苗さん、香澄が好きで好きで…僕はもうあなたの
家族じゃないんですか」
「茂樹さん…じゃあ、ご結婚はまだなの?」
「これからです! あなたとです! 離婚がまだなら引き裂いてやっ
ても僕がもらう!」

 声の消えた長い時が流れていった。

「馬鹿な…そんなことがどうしてできるの、おばあちゃんなのよ私な
んて」
「でしたら香澄と一緒に暮らしましょう」
「え…」
「香澄のところへ一緒に行ってほしいんだけど、そんなことをすれば
向こうでアイツに殺される。香苗さん、僕を信じて僕の香澄に生まれ
変わって!」

 香苗さんは立ち上がり、背を向けて着物を脱いでいく。
 真っ白でやさしい、香澄そっくりの裸身…そして振り向いたとき…。
 涙を溜めて俺のプロポーズを受けてくれた、あのときの若い香澄が
そこにいた。

「こんな女よ私って…それでもいい?」

 あのときの香澄と同じ言葉を、あのときの香澄と同じように涙を
流し、香苗が言った…。

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