快感小説

眼精疲労



遠くの緑より、近くのフトモモ。 男の目薬。

目薬といえば眼精疲労。小説を書いているとヒドイわけです。

でも目薬は、じつはあまりよくないらしい。

防腐剤が目に悪いということ。そこで

防腐剤を使っていないものを買うのですが、これが、

容器に一度穴を開けてしまうと10日しかもたない。

冷蔵庫で保存するから、点眼すると目が冷える。


男の目薬は、はたして目にいいのかと考えてしまうんだ。

妻は幽霊(終話)

終 話


 そして土曜日。

 野中のマンションで落ち着く前に祐紀子にはどうしても行っておきたい場所があった。川崎の外れにある野中家の墓。納骨から一度も来ていなかったし、野中への気持ちをどうしても姉に伝えておきたかった。
 天気がよく暖かい。そよ風の流れる穏やかな墓地には、週末とあってあちこちに墓参りに訪れる人たちがいる。駐車場には秋田ナンバーがあったりする。遠くなった故人を忘れない家族はもちろんいて、会いたくてやってくる。
 野中家の墓は比較的新しく、墓石に艶が残っていて秋の陽光に輝いていた。墓石の下にあの姉が眠っている。祐紀子はいまだに信じられない思いがする。

「姉さん、真央ちゃん連れて来たわよ。よく顔を見てあげて。…寂しいよ、生き返ってよ姉さん」

 間に真央を置いて野中と並び、それだけを言って手を合わせた。
 言いたかったことは声には出せない。ご主人と真央ちゃんを私にあずけて。姉さんの名で呼ばれることを許して。心の中で念じながら手を合わせていると、むしろ涙が遠のいて、異質な力が満ちてくるような気さえする。姉はきっと許してくれる。これで彼と愛し合える。
 そのとき透き通った佐紀子が墓石の横から覗いて微笑んでいたのだが、そんなことは三人にはわからない。

 今日はどこへ行くということはなかった。マンションに戻って真央と三人のんびりしたい。シーズンが終わったばかりで野中も疲れているだろう。
 クルマを降りて部屋へと入る。佐紀子との愛の巣は、何ひとつ処分することなく妻がいたときのままにされている。シーズン中で後回しになったこともあるのだろうが、野中は妻の匂いを捨てたくない。
 彼のことだ、最愛の真央までをあずけてしまい、独りになって、ここで泣いたのだろうと想像する。
「着替えちゃうから」
「うむ。さあ真央、おいで。向こうへ行ってよう」
「崇」
「うん?」

「姉さんの服みんなもらうわね、下着まで全部」

 野中はその意味を探るような面色だったが、すぐに微笑み、うなずいた。祐紀子は心を定めていた。ここにいるとき私は佐紀子。祐紀子の私は下着まで脱いで忘れてしまおうと。
 整理ダンスから姉の下着を手に取って、裸の姿から佐紀子をつくり上げていく。真紅のランジェリーを選んでいた。赤は姉がもっとも好んだ色。パッションレッド。姉が肌につけていたものを着ていくと、祐紀子が消えていくようだった。花柄の部屋着のミニワンピース。ハワイで買ったもので、これが好きでよく着ていたと思い出しながら、祐紀子は佐紀子に化身した。
 着替えてリビングルームを覗く。ロータイプの大きなソファで真央はパパにいじりまくられていた。

「…佐紀、綺麗だ」
 妻そのままの姿を一目見て、それだけで野中は泣きそうになっている。それで充分、佐紀子の心は震えていた。
 真央もそうだ。浅草の江戸屋にいて、すっかり江戸屋の家族になっていても、こっちに戻ると目の色が違う。幼いなりにじっとこらえているのだろう。この部屋にパパとママが揃っている。真央はいま、あたりまえだった日々に戻れていると佐紀子は思う。

 キッチンに立ってあたりまえのように食事をこしらえ、あたりまえのように真央を風呂に入れてやって添い寝する。安心しきって眠る娘にキスをして、ベッドを替えて夫のキスを受け入れる。
 避妊はしていた。それだけは琢也の子でないと受け入れるわけにはいかなかった。
 楽しい二日はあっという間に通りすぎ、クローゼットの前に立って、下着から祐紀子に戻って部屋を出る。水曜日からの二日のためにクルマはジープタイプのワゴンに乗り込む。山梨の森だそうだが高地ではなく、空さえよければ寒くないと野中は言った。現役だった頃、真央ができる前に夫婦で歩いた場所らしい。

 日曜日の七時すぎ、三人揃って江戸屋に戻る。
 祐紀子のいない土曜と日曜、浅草ももちろん好天で暖かく、江戸屋は大変なことになっていた。十一時の開店から昼の時間帯はずっと満席。うどんも蕎麦も品切れ。やっと休めたと思ったら、麺職人三人がかりで仕込みを済ませて四時半には午後の開店。それからオーダーストップのかかる七時までずっと満席が続くのだ。
 若い荒川でさえヘトヘト。疲れ果てて座り込んでいるところへ帰るのだから、祐紀子は胸が痛かった。

 それはそれとして、この土日、京子の様子が妙だと琢也は感じていた。元気がないわけではなかったが、何か考え込んでいるようで表情が冴えない。野中ばかりにうつつを抜かして店をかえりみない祐紀子が面白くないのかとも考えてみたのだったが、祐紀子が戻ったとたん、会いたかったとでも言うように寄り添って仲がいい。
 京子という、もう一人の妻。二人でまさかそんな話をしていようとは思ってもみない琢也だった。

 祐紀子は、京子に対してコソコソ隠れるような逢い方はしてほしくなかった。互いに見抜いていながら素知らぬ顔をしていると、いつかきっと爆発する。私に二人の夫がいるように、夫にだって二人の妻がいてもいい。隠さず愛を共有できたほうがピュアに愛せると思うのだった。
 そこで問題なのは琢也。密かに通じていても真面目な夫がそんなことを受けれるのか。祐紀子はそう考えていた。

 しかし琢也は違った。透き通った佐紀子に見抜かれていたことだし、京子ならそうなってもいいと妻の気持ちも聞かされていた。
 だけどやはり心が痛い。暗黙の了解であり言葉に出して言うことじゃないと思っていた。
 夫婦のどちらもが同じことを恐れていたということだ。

 節香は内心ハラハラしていた。祐紀子と京子の仲がよすぎる。気持ちを抑えようとポーズすることはあるものだし、真央やパパのためとは言っても、野球シーズンが終わってからは特に気持ちが野中に向きすぎている。琢也はほんとに怒ってないのか?
 これほど忙しいと真央がいてくれないほうが気が楽というものだったし、野中がいても琢也と祐紀子は仲がいい。けれどもやはり夫婦仲が気になった。蕎麦に必死で孤軍奮闘の琢也がちょっと可哀想。
 月曜火曜と江戸屋は落ち着く。真央は保育園を休ませてパパと二人で出かけていった。祐紀子は店に残って仕事をしたが、傍目にも琢也には怒る素振りが見られない。そこに近頃では京子までが溶け合って三人夫婦のようになっている。
 妙なものだと節香も蔵之介も顔を見合わせて見守っているしかなかった。

 さあ水曜日。景子だけがいない朝食を済ませ、野中、琢也、真央、祐紀子と京子の五人でクルマに乗り込む。
 低地でも紅葉のはじまった中央高速を走り、着いてみるとそこは別荘地を中心に整備された自然公園のようなもの。高度数百メートル程度の山の上に小さな神社があって、周囲をぐるりとハイキングコースが取り囲む。小川のせせらぎもあり、フィールドアスレチックなども整備された広大な公園。子供がいても危なくないしスニーカーで充分だった。
 低地よりは紅葉が進み、赤くなった秋の森は美しい。そんな中でパパとママに挟まれて真央は弾む。目を輝かせてパパと一緒に走り回り祐紀子が笑って見つめている。

 歩くとき、三対二に自然に分かれた。
 琢也のそばには京子がいて、恋人そのままに腕を絡めたりしているのだが、祐紀子は笑って平然としている。最初のうち目を気にした琢也だったが、このときになって妻は許したと確信できたし、チクリとした胸の痛みも薄らいだ。祐紀子も堂々と野中の妻、佐紀子となって笑っている。
 そんな姿を琢也は、これでいいんだと思って見つめていた。名前のように真央が真ん中にいて大人四人をつないでいる。野中に対して嫉妬心は微塵もなかった。

 夫には京子がいてくれる。祐紀子もまた恋人のように堂々と寄り添って歩く琢也に安堵した。野中との愛を責められれば江戸屋は壊れる。琢也の大きな器がすべてを許容してくれている。琢也は私の誇り。祐紀子としての愛がふくらむから佐紀子として野中を愛していけるのだから。
 離婚までして野中と添うつもりはなかったし、野中と別れて真央を奪われるなんて考えられない。このままずっと四人夫婦の関係が続いていくと考えた。
 でも、野中と京子のカップルは許せない。崇と真央は私のもの。

 野中と京子をカップルにしないために俺は京子は独占しなければならないと琢也は思う。
 そんなことになれば佐紀子はまた悪霊と化して京子を襲う。霊に憑かれれば命だって危うくなる。
 琢也は、腕を絡めて甘えるように歩く京子の腰に手を回し、そのとき振り向いた祐紀子に対して暗黙の声を発していた。
「京子を抱くよ」
 祐紀子は夫の面色をもちろん察し、微笑んでうなずいた。
「崇に抱かれるから」
 琢也もまた微笑んでうなずいて、京子の腰を抱き寄せた。

 そして、そのとき野中はそんな三人の沈黙の会話に気づきながら、真央の視線を大人のかけひきからそらすように手を引いて、枯れ草の混じりだした野原を駆ける。
 透き通った佐紀子が満面の笑みでまつわりつくように走っている。
 ただ一人それの見える琢也は、心の中で言うのだった。

「これでいいんだろ?」
『ありがと。琢也が好きよ、愛してる』

 野原を走り回るパパと真央に笑って駆け寄るジーンズ姿の祐紀子の輪郭に、同じようなジーンズ姿の透き通る佐紀子がすーっと重なって同化していく。

 貸し別荘は、一部が二階建てで八人泊まれる広さがある。寝室は二階が洋間でベッドが二つ。下が和室で布団が六組。野山を走り回って汗をかき、着いてすぐ風呂。浴室は広く、八人揃って入れるほどの大きな浴槽。
「真央がいるからごめんね、あたしたちが先でいい?」
「いいよ、行っておいで」
 ここでも二組に分かれていた。そのとき野中は、それでも確かめるように琢也を見たが、祐紀子は真央の手を引いてさっさと風呂へと向かっていく。
「野中さんもよ、行きましょう」
「あ、うむ」
 琢也はちょっと微笑んで野中に対してうなずいた。それを野中は受け取って、意を決したようにサッと目を切り、真央の背を押していく。

「琢ちゃん凄いよ。あなたが好き。抱いて」
 二人残った琢也と京子。暮れていくオープンテラスに立って、赤い陽光を背景にキスをした。
「もうコソコソ逢うのはやめましょうね」
「うむ。好きだよ京子」
「はい。いろいろ考えてるのよ」
「何を?」
「どっかにお部屋借りようかって。そうすればいつでも逢えるでしょ」
「ふふふ、どうやら祐紀ちゃんと話ができていたようだな」
「え? 何のこと? ふふふ」
「なるほどね、そのへん大人ってことだ」
 京子はちょっと笑って愛のキスを求めていった。

 その頃、浴室で。
「今夜、琢ちゃんと京子を一緒にしてあげましょう」
「それでいいのか?」
「いいの。もうコソコソしない。私だって佐紀子になりたい」
「なんだか話ができていたようだが、よけいなことは言うまい。みんな家族だ」
「そう、みんなが家族。私だけ二人分でズルい気がするけど、これも運命なのよ」
「運命か…その言葉、佐紀が好きでね。プロポーズされたときのことを覚えてるよ」
「プロポーズされた? したんじゃなく?」
「あいつのパワーさ。私と添うのがあなたの運命、逆らうと不幸になるわよって。よくもしゃあしゃあとって思ったけど、そこまで言ってくれる女は他にはいないと思ったさ。あの頃の俺にちやほやしなかった」
「姉さんらしいわ、激しいもん姉さんは」
「まあな。しかしその佐紀に、おまえはどんどん似てくるぞ」
 祐紀子は眉を上げてうなずいた。ちょうどいいお湯の中でママの乳房に抱かれていて、真央はトロンと瞼が重そうだった。
「あらら、おネム?」
「みたいだな。可愛いもんだ」
「ええ可愛い。私もう、この子のためならどんなことでもできるわよ」

 母親の強い言葉だと野中は思った。
「あなたもよ崇。私を本気にさせたんだから、そのつもりでいてちょうだい。姉を揺り起こしてでも祟るからね」
「ふっふっふ、それもまたアイツの口癖だったよ。裏切ったら呪ってやるって、お化けみたいに睨まれたことがある。怖かった」
「あははは、大丈夫よ、私はそこまで般若じゃないから」
 白い胸のふくらみに抱き締める真央越しに、野中はちょっとキスをして浴槽を立っていた。
「ほら真央、起きなさい、これからご飯なのよ」
「うん起きるぅ…ママぁ」
「はぁい?」
「真央のママよね?」
 キュンとした。真央なりに苦しんでいたようだ。
「もちろんよ。ママは私、安心なさい」
「うんっ!」
 ご飯と聞いて目が丸く開いていく。

 浴室を出て、待っていた二人とすれ違いざまに祐紀子は京子の尻をぽんと叩いた。
「できたら早くね。京子がしてくれないとお料理うまくできないし」
「はいはい」
 これには野中と琢也が一緒に笑った。
 京子の背を押しながら、琢也がなにげに言う。
「佐紀ちゃんらしいよ、あっはっは!」
 その一瞬、野中は横目を祐紀子へ流した。
 二人を見送って野中が言う。
「琢也君ほどの肝っ玉が佐々木にあればな」
「そうなの? 彼ってダメ?」
「ダメじゃないが、エラーでもしてみろ、ロッカーでウジウジと」
「佐々木さんらしい、可愛いじゃない」
「だから可愛い。必死だよ。奴はCSでもよくやった。春のキャンプ次第だが、来季アイツはレギュラーになるだろう」
「ほんと!」
「うむ。いまは郷里に帰ってるが少ししたら出てくるよ。若いの誘って江戸屋に行くって張り切ってた」
「いいわよ、四人ぐらいまでなら泊まれるから」
「そう言っとく。喜ぶぞ、あの野郎。一度佐紀に叩かれたことがあってね」
「そうなの?」
「俺はダメだってイジケてやがった。そしたら佐紀がパシンだよ。それからさ、スキューバをはじめたの。佐紀さん佐紀さんて姉さんのように慕ってた」
「…いい人ね」

 それから、持ち込んだ材料を広げてみて、祐紀子は米だけを研いでおいて京子を待った。料理の腕でははるかに京子。早いし包丁も冴えている。
 五人家族で囲む夕飯。それからゲームでちょっと遊び、真央はいよいよ眠くなる。
 下に三組布団を敷いて、上のベッドで二人が眠る。
「佐紀って言ったな、おまえのこと」
「そうね、言ったね。わかってるのよ何もかも。周りの人みんなの気持ちが」
「ああ、いい奴だし、俺など足下にもおよばない」

「…佐紀」
「タカちゃん」
 このとき佐紀は、もちろん佐紀子の赤いランジェリーを身につけていた。

「佐紀って呼んだね」
「そのほうが祐紀ちゃん楽だろ」
「琢ちゃんのそういうところがたまらないの。愛してるわ」
「うん。俺たちも仲よくしよう」
「…抱いて」
 いまごろ下で妻は野中に抱かれている。琢也は愛の不思議にちょっと笑い、唇を重ねていった。
 黒の下着の消えた白い京子は美しかった。腕の中で小鳥のように震えている。

 そしてそのとき、愛にしなる京子の裸身に、同じように愛にしなる透き通った佐紀子が多重して、すーっとズレて抜けだした。

「そんな…どうして?」
『琢ちゃん勘違いしてるわよ』
「どういうこと?」
『あたし確かに祐紀に憑依したけれどさ、あの子の心は少しだっていじってないわよ。祐紀が野中を求めたの。祐紀があたしになりたがる。だからあたしは妹から離れるの。京子の体はあたしがもらう。姿は京子でしょうけれど、京子の心は私は封じる。たったいまから京子は佐紀子。琢ちゃんを愛してしまった。京子なんかに渡してたまるもんですか』
「…激しい人だ」
『愛のためよ。私は死なない。京子を追い出したってあなたの妻だわ』

 ここ数日、様子のおかしかった京子。佐紀子に憑依されて混乱していたのかもしれないと琢也は思った。
 多重する透き通った裸身がすーっと重なり、そのとき京子が目を開けた。

「そういうことなのよ、うふふ。これって双子の姉妹でスワッピング?」

 琢也は声を失った。京子の声ではなかったし、遺影の中の佐紀子の眸の色そのままだった。

妻は幽霊(四五話)

四五話


 敵地広島に乗り込んだ横浜シーシャインズ。ペナントレースの成績から結果的にセリーグ関東三チームを代表するCS進出ということで期待されたシーシャインズだったが、双方一勝で迎えた三戦目、プレッシャーからか先発投手が崩れてしまい、中継ぎも打ち込まれて勝負はついた。
 そんな中で佐々木は、三戦ともに六番サードスタメンで起用され、各試合複数安打の大活躍。皮肉なもので佐々木の前にランナーがいなかった。
 シーシャインズの今シーズンが終わったわけだが、一部のベテラン選手と帰国する外人選手を除いて、シーズンが終わったから休みということではない。とりわけコーチングスタッフは来季に向けたミーティングも多く、好調とは言えなかったシーズンだけに立場は苦しい。

 そんな十月半ばの土曜と日曜、祐紀子は真央を連れて野中を元気づけに出かけて行った。パパと三人で秋の伊豆をドライブし、リゾートホテルに泊まる。
 一方の琢也も、あれから一度、水曜日に京子と外で逢っていた。水曜日は店は休みだったが保育園があって祐紀子は家を空けられず、月に二度は保育園の後、近くのスイミングクラブで水泳を教えていた。真央はスポーツに向いている。四歳にも満たない子供が大人顔負けのクロールで二十五メートルを泳ぎきる。

 それともうひとつ、江戸屋にも変化があった。土日だけ若い麺職人が武者修行に来るようになっている。観光シーズン本番の土日は忙しすぎて、じきに六十七歳になる蔵之介一人では身が持たない。琢也は蕎麦を打てなかったし厨房は戦場と化していた。
 そこで蔵之介は、かつて親方として仕切っていた神田の名店から週末の二日間だけ若い衆を回してもらうことにする。若衆としても、浅草で知られる江戸屋で、かつての親方の下で学べるとあって張り切ってやってくる。

 隅田川のそばにある江戸屋なのに若者の名は荒川淳。歳は十八と琢也より一回りも若かったが、高校を一年で中退して麺職人として二年近くのキャリアがあった。背丈も百七十五センチと長身で若くてキビキビ。髪は職人らしい角刈りで整った顔立ちの青年だ。実家が埼玉で蕎麦屋をやっていて、その店を継ぐために修行に出ているらしい。
 琢也と同じような立場だったが、琢也にすればはるか年下の先輩ということなり、ちょっと口惜しい。江戸屋の蕎麦は伝統的に白くて細い麺。つまり、うどんにくらべてはるかに薄くノバさなければならなかったし、切り幅も細く揃えないと茹で上がりにムラが出る。小麦粉でつなぐ二八蕎麦ならまだしも、蕎麦粉だけの十割でそれをやろうとすると技量がないととてもできない。

 蔵之介がはじめた新しい江戸屋の蕎麦は、白く細いという江戸屋の伝統を守るため一番粉を主体に打つのだったが、蔵之介は、それでは蕎麦の風味に欠けるということで、一番粉七に対して二番粉を三混ぜる蕎麦をつくった。一番粉だけでつくるものよりわずかに黒みがかっていて、しかし打ちやすい麺だったが、それでもグルテンを含まない一番粉が主体なだけに水回しとコネがすべて。琢也が打つと厚みも幅も一定せず、茹でるうちにブツブツ麺が切れてしまう。

 若い荒川が来たとき、親方のそばで打つところを見せられて琢也は愕然とした。
 コネ鉢に一番粉七、二番粉三を混ぜた蕎麦粉を一、五キロ。コネ鉢の肩の一か所に水を細く落としながら、反対の手で手早く混ぜてダマにする。それからコネ鉢をさらえるように粉を取り込みながら揉み込んで、あっという間に蕎麦玉をこしらえる。菊揉みにまんべんなく揉み込んで丸くまとめ、それからがノシと切り。
 そのときも麺棒を巧みに使いこなし、四角く、均等に薄い蕎麦生地に仕上げていくのだが、生地にまるでヒビが入らない。琢也だとヒビだらけになってしまって、だから茹でると麺が切れる。
 布をたたむようにきっちりたたみ、駒板を当てて切っていく。機械打ちの麺のように厚さも幅も揃っていた。
 蕎麦打ちは焦ってもダメ。場数を踏んでいくしかない。いまの自分など神田の店に行けば皿洗いが精一杯。腕の違いを見せつけられた。

 平日は午後になって休んだときに余裕がある。蔵之介が横に立って息子を教える。まさに江戸屋の息子。それだけに親は容赦はしない。
 節香も祐紀子も、京子も景子も、厨房脇のテーブルに座って横目で見ていた。ガラス越しでも声はしたし、店の休憩どきでは麺打ち台への引き戸が開いているから、さらに声が響いてくる。
「手が荒い! 揉むのとつぶすのは違う! 空気を喰わせるからおめえの蕎麦はダメなんでぃ!」
「はい!」
「こう、水をじくっとなじませるようにだな、蕎麦玉をつつむようにして揉み込んでやるんだよ」
「はい!」
「ええい違う違う! それじゃおめえ、祐紀坊の乳揉んでるだけじゃねえか!」

「けーっ、そればっか。助兵衛ジジイ…ああもうっ、腹が立つ!」
 節香が苦笑し、女三人が顔を見合わせて笑い合う。

 揉み込みももちろんだが、ノシからこそ腕。琢也はまず遅かった。もたもたしていると生地が乾きだしてヒビになる。
「まだ遅い!」
「はいっ!」
 遅いと言われて速くすると今度は荒いと叱られる。
「まだちっと厚い、もっと薄くノシてやれ」
「はい!」
「麺棒を大胆に使ってやさしくだぞ」
「はい!」
「おめえのノシはよ、キスしていいって女に訊いてるようなもんなんだ。気を入れてイッパツで決めるんだが、そんときやさしくブチューてなもんよ。わかったか!」

 節香は怒鳴った。
「わかるかい、そんなもん!」

 女三人が声を上げて笑う。
「おろ? 聞こえたかい? あっはっは!」
「聞こえるわさ、大きな声でー! 恥ずかしいねー、もうっ!」
 節香は呆れて首を振り、テーブルを囲む女三人の顔を見た。
「わかるわけないだろ、ったく…。ふふふ、ダメだー、どうしてもそっちに行っちまう、あははは。先々代もそうだったから江戸屋の伝統なんかねー、あっはっは!」

 祐紀子は可笑しかったが、そう言えば琢也は、最初のときガツンと奪ってくれたと考えていた。
 ひ弱に見えても男らしいところがある。真剣な眸で見つめてくれて迫ってくれた。嬉しかったし逃げられないと覚悟が決まる。思い出すと胸が熱くなってくる。琢也が好き。気持ちは少しも変わらない。
 そのことと野中への想いは別。最初の頃は真央を挟んだ想いだったが、生き写しの姉を愛し抜いて、いまだに遺影の前で涙する彼に心が動く。グランドでの戦いは熾烈だったし、佐々木のような若手の成長を願う姿にもやさしさがあふれている。野中への想いもまた、どうしようもないものだった。

 不倫になる。琢ちゃんのことだから逃げ腰だろうと思っていた。
 けれどあのとき、見え透いた取り繕いを言わず押し倒してくれたと京子は思う。琢也を奪おうなんて思っていない。ただ、そうなったときは有無をも言わさず私を女にしてくれる人がいいとは考えていた。
 祐紀子はもう気づいているだろう。でもそれが何よ? 私たちだって野中さんとのことに見ないフリをしてるのよ。お互い様だわ。
 このとき京子は、そうはっきり意識して祐紀子の横顔をうかがっていた。

 互いにそう思っているだろうと察しながら、にもかかわらず、ますます仲がよくなっていく妻と京子を見ていて、琢也は不思議な思いがした。表向きだけではないと思えるからだ。
 京子は子供が好きで、とにかく真央を可愛がる。内心いまだに好きな野中の子だから? とも考えてみるのだが、京子もまた我が子のように可愛がる。
 江戸屋という家族だからか?
 それにしても近頃では仕事の後、夫と子のいる景子を先に帰してしまって、近くの銭湯へ祐紀子と二人で連れ立って行ったりしている。女
同士で愛し合ってもおかしくないほど仲がいい。
 女二人の不思議な連帯。もしかしたら佐紀子が取り持っているのではとも考えるのだが、あえて口に出すことではないと琢也は思う。

 そうこうするうちに十一月。野球もいよいよオフらしく野中には時間ができる。
 その週の土曜と日曜、祐紀子は真央を連れて野中と会い、そのまま向こうのマンションに泊まる。そして翌月曜日に揃って江戸屋へやってきて二晩をすごし、水曜日の店の休みに、京子までを連れて山梨にハイキングに行こうということになっている。
 このところずっと店は忙しく、今月末に出る女性誌でいよいよ江戸屋が紹介される。そうなるとますます混む。それで節香は翌日の木曜を臨時休業とするからゆっくりしてくればいいと言うのだった。
 開店来はじめての連休。滅多にないイベントに真央はもちろん京子も嬉しくてたまらない。

 その夜も銭湯に誘い出し、祐紀子が言う。
「だけど京子、坊やはそれでいいの? 可哀想じゃない?」
「可哀想も何も、そんなことで学校を休ませるわけにはいかないし、たまには家を離れたいし。いいのよ別に」
「いろいろあるんだ?」
「ううん、というわけでもないけど母がさ…」
「再婚のこと?」
「そうなのよ。母もそうだけど親戚でうるさいのがいてね。まったくよけいなお世話だわ。ついこのあいだも縁談を持ち込んできて、断ったんだけど、それで母も言うのよ。まだ若いんだからもう一度行けばって」
「まあね、お母さんとすればそうなんだろうけど、気持ちが向かなきゃしょうがないわよ」
「嫌よ結婚なんて。二度と嫌。いまが楽だし、江戸屋さんにいて幸せなんだから。真央ちゃん、野中さん、琢ちゃん、女将さんと蔵さんも羨ましい夫婦だし、江戸屋の家族になりたいぐらい」

 大きな湯船に身を寄せ合って、祐紀子はうなずく。
「ありがと。私はそのつもりでいるわよ、京子がいてくれないと真央だって寂しがるし、だいたいお店が回らないもん」
「お店のことはパートだからいいんだけど、ユッキーにすればそうよね。パパが来たときの真央ちゃんの喜びよう、パパにしたってそれはそうだし、遺影の前では泣いているし、放っとけないもんね」
 京子は話の流れを装って思い切って言ってみた。
 そのとき祐紀子は、白湯を指先でちょっと掻くようにしながら、うつむいて言う。
「…あたしは」
「うん? なあに?」
「こんな言い方どうかと思うけど、彼といるときは姉さんなのよ。彼にも言ってるんだ、佐紀って呼んでって」
「ふーん、そうなんだ…わかる気はするけど」
 同じようなことは琢也とのベッドで聞いていた。彼に対して佐紀になれる祐紀子だから尊敬すると琢也は言った。
「すごい夫婦ね。嫌味じゃなくてよ、尊敬しちゃう。琢ちゃんて、ほんと強い」
「そう思う。世間的には不倫だもん」

 京子はハッとしたように祐紀子の横顔をうかがった。野中に抱かれていると白状したようなものだったし、それが言えるということは、もしも琢也に知られても彼なら許すと信じきれているからで…。

 洗い場を出て隣り合わせで下着を着込みながら、祐紀子はチラリと京子の裸身へ眸をやった。
 ふ…と一瞬微笑んで、連れ立って銭湯を出る。夜風はさすがに冷えてきていた。
 銭湯から川筋に出ることができた。祐紀子は遠回りをしようとした。この季節の川筋には人は少ないからだった。
「貸し別荘なのよ、泊まるところ」
「うん?」
「寝室が二つあるんだって。二階建ての上と下に」
「あ、そう。それが?」
「そうなると真央とパパと私は一緒になるでしょう」
「あ…そうね、じゃないとヘンだもんね」
「野中さんは男女で分かれようって言ってるわよ。だけど真央のことを思うと一緒にいてやりたいなって」
「うん、滅多にないことだもんね」
「そうなのよ。だからね…うまく言えないけど、ほんとの意味で家族になって」

 そうなると琢也と京子が一緒になる。これまで何度か水曜日に逢っていたこと祐紀子はやはり見抜いていたと、このとき京子は感じていた。
 そしてそのとき、京子の頬に不意にキスがやってきた。ハッとして顔を見ると祐紀子は穏やかに笑っている。

 女二人で琢也を共有しようと言われたようなものだった。

妻は幽霊(四四話)

四四話


 プロ野球もシーズン最終。各チームに対し、少なくて残り二戦、雨で流れたゲームを残す多い相手であっても残り五戦。その残り五戦のうちの三戦を神宮で戦うことになる。
 広島へも大阪へも今シーズン最後の遠征。首位の大阪パンサーズ、二位の広島シャークスは、ほぼ確定。Aクラス残留の対象チームは東京ドームに本拠を置く東京シャイアンズ。東京シャイアンズは現在三位で二ゲーム差。残りゲーム数からも、とにかく勝たなければならなかった。
 しかし翌日からの三連戦で横浜シーシャインズは二勝一敗。一方の対象チームは三連勝とゲーム差がひろがってしまう。遠征で一勝でも多く勝って、戻ってからの直接対決二連戦を二勝しなければならなくなった。神宮三連戦を終えた時点で数字上の希望はあったのだが絶
望と言ってもよかっただろう。

 ところが、それからの広島との三連戦、大阪との三連戦の遠征で横浜は四勝二敗。対する東京シャイアンズは二勝四敗で、ゲームがなくなってしまう。戻ってからの数戦、とりわけ直接対決二連戦が勝負となる。そうなると野中はチームに張り付いていなければならず動けない。
 九月の末。ドーム球場が本拠の東京シャイアンズはゲームの消化が早く、直接対決を終えた時点で一ゲーム差の三位。横浜シーシャインズが残り二戦を連勝できれば勝率で上に立てる。

 十月の頭、横浜スタジアムでの今季最後の二連戦。初日は胃の痛くなる投手戦で2-1で辛くも勝利。しかし最後の最後の試合が乱打戦となって、七回を終わって7-8で1点ビハインド。
 江戸屋では節香と蔵之介の部屋にある大きなテレビに、京子景子までが着替えもせず作務衣のままで張り付いて試合を見ていた。
 八回表の相手の攻撃を抑え、その裏、ツーアウト一二塁。そこで打順は今日まるで打てていない二番打者に回り、代打、佐々木。シングルヒットで同点、逆転には長打が欲しい場面であった。
 相手ピッチャーはベテランセットアッパー。一塁コーチャーズボックスに野中が立って、打席の佐々木に拳を握って鼓舞している。

 祐紀子も京子も、野球をそれほど知らない景子さえも息を詰めて見守った。
 初球ファウル。二球目見逃し。ノーボール・ツーストライク。緊張のあまり佐々木は一度打席を外してタイム。ふたたびかまえ、二球続けてボール。ツーツーの並行カウントからの五球目、ど真ん中のストレートを打ち損じてファウル。天を見上げて口惜しそうにした佐々木。
「ここはストライクはいりませんね、外に落してやれば振りますよ」
 うるさい。わかったような解説に腹が立つ。

 そして勝負の六球目。キャッチャーの構えとは逆球となるインサイド膝元から落ちるフォークボール。佐々木のバットは動かなかった。見送ったのか手が出なかったのか。ストライクと言われてもしょうがないコースだったが判定ボールでフルカウント。次のバッターは今日二安打の三番クリーンナップ。ここで満塁にするわけにはいかなかった。ストライクを投げ込むしかない。
 祐紀子は手を合わせて祈るようにテレビを見つめた。アナウンサーも興奮している。
「さあ勝負だ! フルカウントからの七球目、ピッチャー投げた!」
 パキィーっといい音。スタジアムがどよめいた。
「やったーっ! 打ったーっ!」
 祐紀子も京子も景子も、小さな真央までが絶叫する。
「打ったーっ! 代打佐々木、センター前ヒット! 二塁ランナー生還で同点! 同点! 横浜追いつきましたーっ!」

 そしてそのとき三塁を狙った一塁ランナーへのサード送球がワンバウンド、三塁手のグラブを弾いて外野側へてんてんと転がった。
「ああエラー! まさかのエラー! ランナー突っ込む!」
 カバーに走った相手ライトからの矢のような返球。またしてもホームクロスプレイ。
「滑り込んだが、キャッチャー、ブロック! 判定どうかーっ! 判定はーっ! セーフです、セーフ! 逆転! シーシャインズ土壇場で逆転ーっ! 打ったバッターの佐々木はセカンドへ!」

 セカンドベース上で佐々木は正座をするように座り込んでしまっていた。一瞬後に両手を突き上げてガッツポーズ。佐々木佐々木の大合唱が巻き起こる。
 そしてさらに、その佐々木をセカンドに置いて今日絶好調の三番バッターがライトの頭を超えるスリーベースヒット。次の四番バッターが続けてヒットで、この回一気に四得点。九回表に相手にソロホームランを浴びるも二点差でゲームセット。両軍ともに、まさに死闘。横浜シーシャインズはクライマックスシリーズ進出を決めた。

 ベンチ前に佐々木は引きずり出されて胴上げ。ドリンクを浴びせられてもみくちゃにされている。
「野中コーチも泣いてますねー、抱き合って喜んでます」
「そうですね、あの一打でAクラス確定ですからたまらないでしょう。佐々木は野中君みずからが育てた男ですからね、嬉しいと思いますよ」
 祐紀子もそうだし、京子までが目頭を押さえていた。
 ヒーローインタビューはもちろん佐々木。泣き崩れて声にならないインタビューを最後に、横浜シーシャインズの全日程が終了した。
 祐紀子がふと見ると琢也が涙を流している。二軍で苦しんだ姿が自分と重なるのかもしれなかった。

 試合が終わったのが九時半すぎ。それから一時間半以上がすぎた十一時頃になって、祐紀子ではなく琢也の携帯がバイブした。
 そのときは京子も景子も帰っていて真央はスヤスヤ眠っていた。
「ああ、これは野中さん、おめでとうございます、やりましたねー、見てましたよみんなで」
 祐紀子がクスリと笑いながら耳を寄せて聞いている。
「まったくね、Aクラスなんて信じられない。それで明日なんですが」
「あ、はい? こっち来ます?」
「そのつもりなんですがいいですか? さすがにみんなバテバテで明日は休もうってことになりましてね」
「ぜんぜんかまいませんよ、CSの前にぜひどうぞ」
「佐々木の奴も一緒にいいですか? 若旦那の名物うどんが喰ってみたいってうるさくてしょうがない。はっはっは!」

「ちょっと代わって」 と祐紀子が嬉しそうに言った。

「祐紀よ。凄かったなー、感動しちゃった。佐々木さん凄いよー」
「ほんとだよな、あの場面でよくぞ打った。あの野郎が打ったとき鳥肌もんでした。チームみんながそうでしたよ」
「それでしたら野中さん、ウチには佐々木さんのにわかファンがいるからサインボールでもお願いできない? 京子も景子さんも涙ぐんで見てましたから」
「はいはい、そんなもんでいいならいくらでも用意しますよ。ボールとユニフォームにサインさせて持たせますから。明日は土曜だけど、お店忙しいでしょ?」
「お天気次第ですけどね、七時半には空きますから大丈夫」
「わかりました、じゃあその頃に。あれから佐々木の野郎、ボロクソですよ。殴られ蹴られビールを口に突っ込まれてエライことになってます、あっはっは!」
 滅多に飲まない野中も今夜ばかりはアルコールが入っている。
 弾むように明るい。祐紀子は即座に京子に電話を入れて明日のことをつないでおく。京子も今夜は寝られないと笑っていた。

 翌、土曜日は上天気。観光シーズン本番で浅草界隈にどっと人が出た。開店からフル回転で、うどんも蕎麦も品切れ。やむなく二時すぎに一度閉めて仕込みにかかる。ふたたび店を開ける四時前には、四時開店の張り紙を見た客が店の前に並びだし、それから夜までフル回転。新しい江戸屋はうどんの名店としても知られるようになっていた。
 七時になってオーダーストップ。そのときも店は満員で、最後の客が出たときには七時四十分。その最後の客とすれ違いに野中と佐々木が連れ立ってやってきた。二人ともカジュアルスーツ。現役選手で若い佐々木は練習で陽焼けして真っ黒。野中ほどではないが佐々木だって百八十センチを超える長身で、二人ともカッコいい。
 祐紀子、京子、景子、そしてもちろん真央が出迎え、野中は真央を抱き上げて、女三人は揃って佐々木を取り囲む。サインボールとレプリカユニフォームにサインをしてもらい、嬉しくてたまらない。

 琢也の出番だ。佐々木のためのうどん玉が切らずに残してあった。麺打ち台に立つ若旦那。野中と佐々木がガラス越しに覗き込み、琢也は手慣れた手つきで麺棒で生地をノバシ、きっちりたたんで麺切り包丁で切っていく。
 佐々木が目を輝かせる。
「ほう、すごいもんです、プロだなぁ」
「だって毎日ですもん。うどんはこれだけできても蕎麦はまだぜんぜんなのよ。できなくて苦しんでるんです」
 祐紀子に言われて佐々木はうなずく。ファームで苦しんだ自分の姿と重なる。しかし琢也はうどんでは見事。太さの揃った綺麗な麺が見る間にできあがっていく。
 今夜は佐々木が来るということで赤飯を用意してあった。皆も夕食はこれからだったから、奥の座敷に席をこしらえる。
 節香お手製の小料理で軽く乾杯。それから琢也と節香が厨房に立ってうどんをつくる。外はもう肌寒い。温かい天ぷらうどん。麺は琢也があげて天ぷらは節香が揚げた。京子と景子で席へと運び、誰より佐々木が目を丸くして箸をつける。

 一口を運ぶ。皆がしーんと見つめている。
「これは…ううむ、美味い! これは美味いよ!」
 佐々木はちょっと大げさだった。
「そうすか?」
 そのとき蔵之介も一口つけて横から言った。
「ふむ、なるほど、店で出すもんとはちぃと違うか。二人ともスポーツマンで汗をかく。わずかに塩が多いだろ?」
 琢也はうなずいた。
「ほんのちょっとですけどね。そのほうがいいと思って」
 佐々木は驚いたようだった。たかがうどんでも、職人の気づかいで味は変わるということだ。
 佐々木が言った。
「僕は秋田ですが」
 節香が言った。
「ああ、稲庭の本場ですもんねー」
「そうです。稲庭とは違いますが、でもこれだけのうどんは滅多にないすよ。いやぁ美味い、驚きました」
 琢也が言った。
「東京オリンピックのときのことを書いた本を立ち読みしましてね」

 蔵之介が眉を上げて視線を向けた。皆も琢也を見つめている。
「選手村で料理を担当したのは超一流ホテルのシェフたちだった。料理は間違いなく一流。なのにどうしたことか食べ残す選手が多かったそうなんですね。選手は汗をかくから味が薄いと美味しく感じない。そこに気づいた料理長がほんのわずか塩を増やしたところ、とたんに選手たちは大喜びで残す人がいなくなったということなんです」
 蔵之介はうなずいて、立派になったと言うように節香と顔を見合わせた。節香も嬉しい。いつの間にか若旦那はプロになってくれている。

 佐々木は黙って琢也の顔を見つめていた。職人の凄さを見せつけられる思いだったに違いない。
「若旦那って、この道に入ってまだ四ヶ月ほどだと聞きましたが?」
「そうですよ。いまはまだうどんだけです。やっと少しできるようになったばかり。蕎麦なんてとてもとても、めちゃ難しい」
「最初の頃はスイトンだったもんねー。あははは」
 節香が笑って、琢也同様に、まるで息子のように若い佐々木に言った。
「いつぞや二軍の試合を見せていただいたときにね」
「あ、はい? 横須賀でしたね?」
「そうそう、そのとき。プロの厳しさを見たって琢ちゃんが言うのよ。俺には蕎麦だって。負けないって。だから夕べの佐々木さんの活躍がどれほど嬉しかったか。ねえ琢ちゃん、そうよね?」
 琢也は唇を固く結んでうなずく。
「あのとき泥だらけだった人があれだけの観衆を沸かせている。主役でしたもん。震えましたしプロの世界は何でも一緒だなって思いましたよ」

 それには佐々木よりも野中がうなずいていた。真央はパパの膝にいてご機嫌だったが、騒がずに話に聞き入っている。そんな真央の頭を微笑んで撫でながら野中が言う。
「まあ、これはじつはマル秘なんだが。プレッシャーになるといかんからな。…で、佐々木よ」
 野中はにやりと笑って横目をやった。
「あ、はい?」
「CSだがな、初戦はスタメンでいくって監督が言ってたぞ。明日あたり呼ばれるだろ」
「ほんとすか?」
「でなければファンが納得しない。CS行きを決めた選手を何で使わないってことになる。いつも言ってるがスタメンとはそういうことでもあるんだよ。琢也君のうどんを目当てにお客さんが来るようなものなんだ」

 佐々木は唇を噛んでうなずいていた。
 そのときの佐々木の姿を忘れないと皆は思う。勝負に臨む武人の姿のようだった。佐々木とは初対面の景子はもちろん、祐紀子も京子も声さえ出せず、けれども胸は熱かった。頑張ってなんて見え透いたことを言ってもはじまらない。
 琢也はドキリとした。佐々木の手が武者震い。この人にとって運命を左右する勝負がはじまる。自分には蕎麦。早く覚えたい。ぜんぜんダメ。まだまだ二軍選手だと自分で思う。
 佐々木が言った。
「食べに来ますよ、仲間を誘ってこれから来ます。確かにそうです、このうどんを目当てにやってきて若旦那がいなければお客さんは納得しない」
 隣りに座って聞いていた蔵之介が琢也の背中をバンと叩いた。
「だとよ。最高の褒め言葉だぜ、身に沁みて覚えとけ」
 そのとき節香が涙を溜めていたことを、祐紀子は生涯忘れないと思って見つめていた。

 食事が済んで、今夜は野中と佐々木が客間に入る。その前に二人して仏間を覗き、そのとき今度は佐々木が涙を浮かべていた。
「佐紀さん、来ましたよ、佐々木です。もう一度一緒に潜りたかった。寂しいです。俺、江戸屋のみんなのためにも頑張りますから見ててください」
 野中が遺影に微笑んで、佐々木の肩に手を置いた。

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